19話 検閲明け
手紙は、ヴェラの手で外縁へ送られた。
宛名は、セレネへ。
俺はそれを最後まで見送るつもりだった。けれど、ヴェラの黒い外套が部屋を出ていくところまで目で追ったあたりで、視界がゆっくり傾いた。
寝た、というより落ちた。
次に意識が浮き上がった時、部屋はひどいことになっていた。
破棄箱から紙がはみ出し、床にも紙片が散っている。机の上には赤線の入った下書き、墨の染み、短くなった赤筆、飲み残した苦い茶が残り、水差しは端へ追いやられ、墨壺の周りだけがやけに黒い。
まともな部屋の有様ではなかった。
隣の椅子では、リューネが眠っている。杖を抱えたまま、赤筆を握ったまま、少しだけ首を横へ傾けていた。目の下には薄い影があり、眠っているのに、まだ紙を破る仕事を続けているように見えた。
丸二日。
その間ずっと付き合わせたのだと思うと、何か言わなければならない気がした。けれど、声は出なかった。
代わりに、扉が開いた。
入ってきたのはヴェラだった。彼女は部屋に一歩入ったところで足を止め、破棄箱、墨の染み、机に突っ伏した俺、椅子で眠るリューネを順に見た。
しばらく無言だった。
「畑よりひどいな」
否定できない。
「手紙は……出ましたか」
「出した。外縁の伝令に持たせてな。境界詰所へ届くかは相手次第だ」
「そうですか」
それだけ聞ければ、もう一度眠れそうだった。
だが、ヴェラは机に残った紙束から一枚を拾い、無慈悲に目を通した。
「魔王様の脚は王威、とあるが」
「抑えました」
「正気を疑うな」
紙は破棄箱へ戻された。
そこへ、別の足音が近づいてきた。
魔王様だった。
黒い衣。紫の目。玉座ではない場所に立つと、いつもより少しだけ近く見える。
「ずいぶん荒らしたな」
魔王様は部屋を見回し、口元をほんの少し緩めた。
「丸二日か」
「はい。紙とリューネがご覧の有様です」
ヴェラが答える。
「原因は」
「そこの馬鹿です。処しましょう」
異議は少しある。だが、声に出す体力がない。
「やめておけ。せっかく寝ておるリューネを起こすのも忍びない」
魔王様の温情は、俺ではなくリューネへ向いていた。
俺も魔王様に心配されたい。
リューネはまだ眠っている。赤筆を握った指は、眠っていても最後の一線を引く準備をしているようだった。
魔王様は椅子の横へ静かに立つ。
「よく削ったな」
小さな声だった。
それから、眠っているリューネの頭に、そっと手を置いた。
黒い髪が、指の下で少しだけ揺れる。リューネは目を覚まさない。ただ、赤筆を握っていた手の力が、ほんの少しだけ抜けた。
俺は机に頬をつけたまま、それを見ていた。
ずるい。
いや、リューネは丸二日これに付き合った。当然の報酬だ。そう分かっていても、羨ましいものは羨ましい。
「俺も……検閲されれば、撫でてもらえる可能性は……」
寝ぼけた声が勝手に出た。
魔王様がこちらを見る。
「結果次第だな」
そう言って、魔王様は指で弾いた。
俺の額を。
何が起きたのか理解するより先に、ほんのわずかな痛みが走る。その事実が、俺の脳を一気に覚醒させた。
魔王様の指が。
俺の額に。
遅れて、かすかな香の匂いが鼻腔をくすぐる。
「……っしゃ!!」
何かを声に出そうとした。だが、体がついてこない。立ち上がろうとした体は半分も持ち上がらず、そのまま机に崩れ落ちた。
それでも、この痛みは生涯忘れない。
完全に俺の勝利だった。
「お前、完全に負けてるからな」
ヴェラが言った。
「まだ何も言ってません」
「顔に出ている」
その後しばらくして、リューネが目を覚ました。
あれだけ隣でバタついても目を覚まさなかったのに。
リューネは最初に赤筆を見て、次に机を見て、最後に魔王様を見た。椅子の上で背筋が伸びる。
「ま、魔王様」
「起きたか」
「……寝てません。少し、目を瞑ってただけです」
無理はある。
リューネはなぜか自分の頭に手を置き、少しだけ髪を押さえた。それから眠気の残った目で、こちらを見る。
「……何かした?」
寝起きで、まだ状況に追いついていない。赤紫の目は少しぼんやりしていて、怒る前に不安そうな色が混じっていた。
珍しい顔だった。
口に出したら、その瞬間にいつものリューネへ戻る。たぶん、杖つきで。
「何も」
俺は即答した。
ヴェラの視線も怖かった。
リューネは疑わしそうに目を細めたが、そこで赤筆を机に置いた。
「手紙は?」
「外縁へ送った」
ヴェラが答えると、リューネは小さく息を吐いた。
「通したのは、お前だ」
ヴェラの声が落ちる。
リューネが顔を上げた。
「この男が書いた。だが、削ったのはお前だ。最後に破らなかったのも、お前だ」
リューネは机の上を見る。
「……うん」
短い返事だった。
魔王様は少しだけ頷く。
「よい。言葉を外へ出すとは、そういうことだ」
リューネの耳が、また少し赤くなった。
俺は余計なことを言わないように口を閉じた。
その時、ヴェラが破棄箱から一枚拾った。
よくない紙だ。
案の定、ヴェラの目が細くなる。
「セレネの尻は魅力的だった。今でも思い出す」
空気が止まった。
リューネの顔から表情が消える。魔王様は紙を見て、それから俺を見た。
「本人確認です」
「最低のな」
ヴェラは紙を細く裂き、さらに細かく裂いた。
「人間に出さずに済んだことだけは評価する」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
リューネが机に額をつけた。
「本当に、最後の最後まで危なかった……」
今の紙は破棄箱にある。
人間には届かない。
俺たちはそう信じた。
魔王様は部屋の惨状をもう一度見回した。
「休め、と言いたいところだが」
嫌な予感がした。
ヴェラが書類を一枚、机に置く。
「外縁の見張りへ届けろ。包帯、火傷薬、連絡札、魔物避けの鈴、保存食。運ぶだけだ」
「今ですか」
「半刻後だ。休む時間はあるだろう」
「優しさの形が硬い」
横になるには短く、諦めるには長い。
「重要任務ですね」
「ガキの使いだ」
容赦がない。
「リューネも行け」
ヴェラの声に、リューネが顔を上げる。
「私も?」
「この男だけを外に出す方が危険だ」
「荷物より危険物扱いですか」
「そうだ」
即答だった。
リューネは疲れた顔でこちらを見る。
「すこしだけ寝てから行く」
「俺も寝ていいか」
「寝坊したら置いていく。起こす係じゃないし」
もっともだった。
魔王様は小さく笑い、踵を返す。出ていく前に、こちらを一度だけ見た。
「アードゥ」
「はい」
「ガキの使いでも、荷は落とすな」
額にはまだデコピンの感触が残っている。
俺は背筋を伸ばした。
「はい。運びます」
丸二日かけて手紙を書いた翌日。
俺は、ガキの使いとして外縁へ向かうことになった。




