18話 最後の一枚 【挿絵】
セレネへ。
俺は生きている。
それと、最初に謝っておく。
たぶん、この手紙もかなり面倒だ。
そこまで書いたところで、リューネは破らなかった。
机の向かいに座り、杖を膝に置いたまま、じっと紙を見る。赤紫の目が行を追い、最後の一文で少しだけ止まった。
「ここまではいい。今のところは」
「油断できない言い方だな」
「油断しないで。読む人を見て書くんでしょ」
魔王様に言われたことと、ほとんど同じだった。
机の上には、新しい紙がまだ数十枚ある。墨壺。赤筆。削った羽根筆。破棄用の箱。水差し。眠気覚ましの苦い茶。
リューネは、本気で付き合うつもりらしい。
俺は筆を下ろす。
セレネに、俺本人だと分かってもらう必要がある。ならば、セレネにしか分からない情報がいる。
俺は筆を走らせた。
セレネの尻は魅力的だった。今でも思い出す。
でも、魔王様の脚はもっとすごい。
リューネは一行目を読んだ。
二行目まで読んだ。
紙を破棄箱へ放り込んだ。
破るのも面倒だったらしい。
「本人確認を下半身でしないで」
「セレネなら一発で俺だと分かるんだが」
次の紙で、魔王様が可愛いことから説明を始めた。
紙はすぐ抜かれ、破られた。
「理由の一つ目でだめ。事実でも出し方があるって、前にも言ったよね。好きなところほど外に出すなって」
俺は次の紙を取り、少しだけ背筋を伸ばした。
俺は裏切ったわけではない。
仕方なかった。
魔族に捕まって、殺されそうで、戻る場所もなくて――。
リューネの赤筆が止まった。
「これ、逃げてる。事実でも、逃げてる。あなたがそれを書きたいのは、セレネって人に責められたくないからでしょ」
言い返せなかった。
セレネなら、たぶんそこを読む。
あんた、また口だけ逃げてるね。
俺はその紙を自分で折り、破棄箱へ入れた。
リューネは少しだけ目を丸くする。
「自分で捨てるんだ」
「逃げてると言われたからな。俺より、セレネの方が分かるはずだ」
「それを分かっているなら、最初から逃げなければいいのに」
「人間は分かっていても逃げる。魔族は違うのか?」
リューネは少し考え、赤筆を置いた。
「……逃げると思う。少なくとも、私は嫌なことからは逃げ出したい」
「なら、そこは同じだな」
リューネは答えなかった。
ただ、冷めかけた茶をこちらへ押した。
「飲んで。手が止まってる」
俺は茶を飲んだ。
苦かった。
でも、少しだけ目が覚めた。
次の紙。
魔族にも良いやつがいる。
畑もある。
みんな普通に暮らしている。
そこまで書いたところで、リューネが小さく息を吐いた。
「いい話にしないで。嘘じゃなくても」
赤筆が、みんな普通に暮らしている、に線を引く。
「魔族にも嫌な人はいる。人間を憎んでいる人もいる。あなたを見たら殺したいと思う人もいる。でも、畑はある。それだけでいい」
リューネは、紙を破らずにこちらへ返した。
この行は使える、ということらしい。
俺はその紙を横へ置いた。
それから、また新しい紙に向かう。
昼を過ぎた頃には、机の上の紙が半分ほど使い物にならなくなっていた。
破られた紙。赤線だらけの紙。途中で俺が自分で折った紙。
リューネは、その中から使えるかもしれない文だけを分けていた。
「これは残す。これは駄目。これは、言い方を変えれば使える」
「なんか、職人みたいになってきたな」
「誰のせいだと思ってるの」
声は疲れているが、手は止まらない。
「さっきの、畑はあった、は残していい。あと、見なかったことにできなかった、もたぶん必要」
「そんなに真剣に付き合ってくれるのか」
「あなたに全部任せると、魔王様の脚に戻るから」
否定できなかった。
夕方、食事が運ばれてきた。
パンと豆のスープと、乾いた果物。二人ともほとんど喋らずに食べた。スープの器を持つ手が痛む。リューネも赤筆を握りすぎたのか、指を軽く開いたり閉じたりしている。
「交代で休むか」
俺が言うと、リューネは即座に首を振った。
「ある意味信用はしてる。絶対に変な事を書くって」
「信用の形がひどい」
「でも、少しはましになってる。自分で破棄箱に入れるようになった」
褒められたのだろうか。
かなり低い位置で。
その夜、蝋燭が三本短くなった。
机の端には、使える文が少しずつ増えていた。リューネは破る前に必ず読むようになり、俺は書く前に一度だけリューネを見るようになっていた。
何枚目かの紙を手に取り、横を見ると、リューネは微かに寝息を立てている。
普段は口も悪い。すぐに杖で刺す。でも寝顔は可愛い。
その一文は心に書き留める。
二日目の朝、リューネは目を覚ますなり、紙束をめくり、破棄箱を覗き、俺の手元まで確認した。
「本当に変なこと書いてないんだ」
「少しは信用が戻ったか」
「書かなかったことだけは信用する」
朝食のあと、もう一度書き始める。
セレネへ。
俺は生きている。
たぶん、そっちではかなり面倒なことになっていると思う。
俺は魔族側にいる。
そっちから見れば、裏切ったように見えると思う。
それは、うまく否定できない。
リューネの赤筆は動かなかった。
俺は少し息を吐き、続きを書く。
でも、俺は見たものを見なかったことにできなかった。
俺が庇った回復役は生きている。
たぶん、お前も覚えていると思う。
この前、火傷した人間を治したのも、その子だ。
ここで、リューネの指が紙の端を押さえた。
破られるかと思った。
でも、リューネはしばらく黙って、その行を見ていた。
「……私のこと、良く書きすぎないで」
「今のは事実だけだ」
「じゃあ、そのままでいい」
声が少しだけ硬かった。
でも、紙は戻ってきた。
俺は続きを書く。
畑はあった。
そして、焼けた。
俺の手紙が原因の一つだと思う。
魔族がみんな良いやつだとは書かない。
人間がみんな悪いやつだとも書かない。
ただ、畑を焼けば、食い物が燃える。
それは、どっち側でも同じだ。
ここまで書いて、指が止まった。
上手い文章ではない。
リューネは、何も言わずに読んでいる。
目だけが少し真剣だった。
そこで、俺の中の何かが緩んだ。
「魔王様の脚は、ただ綺麗というだけではないんだ」
リューネの赤筆が止まった。
止まったが、まだ破られていない。
俺は、少しだけ続けた。
「玉座に座っている時の角度、衣の裾から見える足先、あれは王威だ。いや、王威という言葉では足りない。あれは、見る者の膝を自然に折らせる力というか――」
「やめて」
リューネの声が低くなった。
「今、いいところだったのに」
「だからやめて。私だって、魔王様に撫でてもらった時のことを思い出す」
「ん?」
言ってから、リューネも止まった。
赤紫の目が、じわじわ大きくなる。
次に、顔が赤くなった。
「忘れて」
「いや、そんなこと言われても」
普段なら、ここでリューネは怒る。
今のリューネは、赤い顔のまま墨壺へ手を伸ばした。
「忘れないなら、仕方ない。記憶ごと塗りつぶす」
リューネが墨壺を掴んだ。
「待て、そんなことしても何も消えない」
リューネが墨壺を持ち上げた瞬間、俺は反射的に紙を守ろうとした。
結果として、肘が水差しに当たった。
水差しが倒れ、驚いたリューネの手元がぶれ、墨壺が机の上に落ちた。
黒が広がった。
紙が、次々と墨を吸っていく。
「あ、まずい!」
「あなたが忘れないからでしょ!」
「言ってる場合か!墨で全滅する!」
二人で慌てて紙を持ち上げる。
使える文を残した紙。
赤線だけの紙。
破ろうとして保留にしていた紙。
ほとんどが墨を吸った。
リューネは真っ赤な顔のまま、濡れていない紙を探す。
俺も机の端を探った。
まともに使えそうなものは、ほとんどなかった。
「これ、まだ使える」
リューネが机の端から一枚を引っ張り出した。
さっきリューネが放り投げた、本人確認用の最低な紙の下に重なっていた一枚だ。
角は少し折れているが、墨も赤線も乗っていない。
「それ、下にあったやつか」
「うん。少し折れてるけど、もう選べない」
「最後の一枚か」
「たぶん。だから、今度こそ破られないことを書いて」
その言い方が、いつもの呆れ声に戻っていた。
ただ、耳はまだ赤い。
俺はそれを見ないようにして、紙を受け取った。
角は少し折れていたが、最後の一枚としては十分だった。
俺は、もう一度筆を取る。
セレネへ。
俺は生きている。
たぶん、そっちではかなり面倒なことになっていると思う。
俺は魔族側にいる。
そっちから見れば、裏切ったように見えると思う。
それは、うまく否定できない。
でも、俺は見たものを見なかったことにできなかった。
俺が庇った回復役は生きている。
たぶん、お前も覚えていると思う。
この前、火傷した人間を治したのも、その子だ。
畑はあった。
そして、焼けた。
俺の手紙が原因の一つだと思う。
魔族がみんな良いやつだとは書かない。
人間がみんな悪いやつだとも書かない。
ただ、畑を焼けば、食い物が燃える。
それは、どっち側でも同じだ。
信じなくていい。
燃やしてもいい。
でも、燃やす前に一回だけ読んでくれ。
アードゥ・テイカー。
書き終えた時、部屋の外はもう夕方だった。
丸二日。
机の周りには破られた紙が積もり、破棄箱からはみ出した紙片が床へ落ちている。赤筆は短くなり、墨壺の縁は汚れ、俺の指はまた包帯を欲しがっていた。
リューネは戦場帰りの顔をしていた。
主な敵は俺だった。
「読んでくれ」
リューネは最後の一枚を受け取り、最初から最後まで読んだ。
途中で一度だけ眉を寄せる。
最後の行で、指が止まる。
燃やす前に一回だけ読んでくれ。
リューネは、その一文を指で押さえた。
「ここは、いいと思う」
喉の奥が少し詰まった。
「破らないのか」
「破らない。気が変わる前に封をして。かなり危ないから」
俺は慌てて封筒を取った。
最後の一枚を丁寧に折る。
封をする。
表に宛名を書く。
セレネへ。
人間へ、と書くよりずっと重かった。
リューネは封筒を見て、ゆっくり息を吐いた。
「届くと思う?」
「分からない。でも、セレネなら、燃やす前に読む」
リューネは、しばらく何も言わなかった。
「なら、出そう」
俺たちは、その紙に墨が乗っていないことだけは確認していた。
我ながら、酷い文章だと思う。
それでも、少しでも伝わってくれればいい。
たとえ、墨が乗らなかったとしても。




