17話 届いてしまった言葉
# 17話 届いてしまった言葉
爪の間に、まだ灰が残っていた。
外縁の畑で焦げた葉を分け、灰を運び、支柱を積み直した。水で洗ったつもりだったが、指先を曲げると、黒いものが薄く残っている。
その手を膝の上で握りながら、俺は玉座の間の床に膝をついていた。
隣にはリューネがいる。昨日より少し顔色が悪く、杖を抱える指にもわずかに力が入っていた。ヴェラは魔王様の傍らに立っていて、黒い外套の裾には、まだ外縁の土がついている。
魔王様は玉座に座っていた。
黒い衣。紫の目。
夜の部屋で見た柔らかな姿ではない。王としてそこにいる魔王様を前にして、俺はうまく顔を上げられなかった。
「貴様の言葉は届いたな」
静かな声だった。
「……はい」
返事をしただけで、喉が乾いた。
魔王様は、すぐには続けなかった。玉座から落ちる紫の目が、こちらを見る。
「違う。届いてしまった」
息が止まった。
「だからこそ、畑は燃えた」
床の石目が、やけにはっきり見えた。
「謝罪など要らぬ」
魔王様の声は淡々としている。
「貴様は文を送った。そして、帰ってきたのは火。残ったのは燃えた畑か」
胸の奥が、ゆっくり押し潰される。
「酷い結果だな?」
「……はい」
何も否定できなかった。
ガルムさんの支柱は黒くなった。薬草の棚は半分だけ残った。人間の兵は火傷し、リューネが治した。
俺は水を運んだ。
運んだだけだ。
「俺には、何もできませんでした」
声が勝手に出た。
「水を運んだだけです。火は止めきれなかった。畑も守りきれなかった。人間に何か伝えようとして、帰ってきたのは火でした。下手をすれば、誰かが死んでました。リューネも、ヴェラさんも、魔王様も――」
「馬鹿者」
声が落ちた。
俺は言葉を止める。
「貴様ごとき一人の失敗で、私が死ぬと思うな」
普通に怒られた。
そのせいで、少しだけ顔を上げられた。
「すみません」
「謝罪は要らぬと言った」
俺は口を閉じた。
魔王様は玉座の肘掛けに指を置く。
「だがな。もう一つ残った」
「……何が、ですか」
「貴様だ」
返事ができなかった。
「火を見た。畑が焼けた。己の言葉が、都合よく読まれることを知った。その上で、まだここにいる。逃げず、隠れず、報告に来た」
魔王様の声は、少しも甘くなかった。
「それも残ったものだ」
「でも、それは」
「失敗した者を一度で捨てられるほど、我らは多くない」
広間が静かになった。
「ヴェラも、リューネも、ガルムも、外縁の兵も、替えの利く駒ではない。貴様も同じだ」
息が詰まった。
「使えぬなら、使える場所を探す。使えるなら、なおさら捨てぬ。それだけの話だ」
隣で、リューネが小さく息を吸った。
「魔王様。私も、治した人間がまた火を持ってくるかもしれないって、分かってます」
低い声だった。
「でも、あそこで治さなかったら、たぶんもっと嫌でした」
魔王様はリューネを見る。
リューネは顔を伏せなかった。杖を抱えたまま、指だけが少し白くなっている。
「許したわけではないのだな」
リューネは、短く頷いた。
「ならば覚えておけ。許すことと、治すことは同じではない」
リューネの目が、少し揺れる。
「よく選んだ」
短い言葉だった。
リューネは返事をしなかった。ただ、杖を抱える手を少しだけ強くした。
ヴェラが一歩前へ出る。
「治した兵が戻った以上、人間側には新たな情報が渡りました。畑、追撃の抑制、敵兵への治療。いずれも都合よく使われます」
「そうだな」
ヴェラの視線が、こちらへ向いた。
「今回の文も、そう読まれました」
畑がある。
だから、燃やせる。
俺の言葉は、そう読まれた。
「アードゥ」
魔王様に名を呼ばれ、俺は膝の上で手を握った。
「一度目の文は、宛先が大きすぎた」
「宛先、ですか」
「人間へ、と書いたのだろう」
俺は頷く。
人間に伝えるべきこと。
そんな大きな相手へ向けていた。
「人間へ、と投げた言葉は、人間の都合で読まれる。兵は燃やす場所を探し、上官は補給地帯と読む。怒りたい者は挑発と読み、恐れたい者は罠と読む」
魔王様は、静かにこちらを見た。
「次は、相手を選べ」
「相手を」
「貴様の字を、貴様の考えを、そして貴様自身を知る者にこそ、言葉は届けるべきであろう」
その瞬間、低い声が脳裏に浮かんだ。
見るなら私にしときな。
続けたら燃やすよ。
あんたはヘタレだから許されてるだけだ。
口より足を動かして。
濃紺のローブ。
高く結んだ銀の髪。
杖で俺の足を踏んだ女。
「……セレネ」
口にすると、思ったより重かった。
リューネがこちらを見る。
「女?」
「女だ。勇者パーティーの魔法使いで、口は悪い。火も撃つ。俺の眉毛を焼こうとしたことがあります」
リューネは少し間を置き、俺の顔を見た。
「……何をしたの」
「見た」
返事をした瞬間、リューネの目が冷えた。
当然の評価だった。
でも、セレネなら読む。燃やそうとはするだろう。それでも、燃やす前に読んでしまう。
「ならば、その者へ書け」
魔王様の言葉に、俺は頷いた。
「ただし、相手を知っているからこそ、甘えるな。知っている者ほど、貴様の逃げも見抜く」
人間全体へ書くより、ずっと重い。
セレネは、俺の逃げ方を知っている。
「次は、読む者を見て書け。分かるだろ?」
魔王様はそう告げて、ほんの一瞬だけ片目をつむった。
叱られている最中なのに、可愛いと思ってしまった。
俺はもう駄目かもしれない。
玉座の間を出る頃には、足が少し重かった。
ただ、前の時のように潰れる重さではない。
灰の入った籠を持った時に似ている。
軽そうに見えて、意外と重い。
それでも、運べる重さだった。
隣を歩くリューネは、しばらく黙っていた。廊下の途中で、ようやくこちらを見上げる。
「セレネって人、あなたのことを知ってるんだ」
「かなり悪い意味で。だから、真面目に書く」
リューネはまったく信じていない顔をした。
「私も読むから。魔王様の可愛さって書いたら破る」
「先に言われた」
部屋に戻ると、机の上に新しい紙を広げた。
前のように題名からは入らない。
人間に伝えるべき何かではない。
知っている相手へ、俺が置きにいく言葉だ。
筆を取る。
指先に、まだ少し灰の黒が残っている。
俺は紙の一番上に、ゆっくりと名前を書いた。
セレネへ。
それだけで、手が止まった。
人間全体へ書くより、ずっと重い。
それでも、もう一度筆を動かす。
俺は生きている。
たぶん、そっちではかなり面倒なことになっていると思う。
先に言っておく。
魔王様は可愛い。
横から紙が抜き取られた。
リューネは一行だけ読み、何も言わずに紙を二つに裂いた。
「待て。これは挨拶だ」
「挨拶で可愛いって書くな」
俺は深く息を吐き、新しい紙を取った。
セレネへ。
俺は生きている。
それと、最初に謝っておく。
たぶん、この手紙もかなり面倒だ。




