16話 魔族が人間を治すなんて、もっと聞いてない
境界詰所に戻ってきた小隊は、隊列を崩していた。
行きと同じ速度では歩けない者がいる。泥をかぶった革鎧、焦げた外套、火油の匂い。戻ってきた兵たちは誰も大きな声を出さず、詰所の前にいた者たちも、最初はただの報告帰りだと思っていたらしい。
だが、足を引きずる兵を見た瞬間、その場の声が落ちた。
右足に包帯が巻かれている。
人間側の軍医や治癒院が巻くものではない。布は粗い。けれど、傷口を圧迫しすぎないように、きちんと逃げが作られている。
レイネはそれを見ただけで、眉をわずかに動かした。
「その足を見せてください」
火傷を負った兵は、椅子に座らされた。顔色は悪い。けれど、本来なら歩けないはずの足は動いている。痛みは残っているらしいが、足首は曲がり、膝も動く。
レイネは膝をつき、包帯を少しだけほどいた。
周囲の兵が息を詰める。
セレネは腕を組んで、その様子を見下ろしていた。鼻の奥には、まだ火油と焦げた布の匂いが残っている。
「……治癒痕があります」
レイネは静かに言った。
「ただし、人間式ではありません。術式の癖が違います。火傷の戻し方も粗い。ですが、処置は正確です」
「つまり?」
セレネが聞く。
「魔族側の回復術です」
誰かが小さく舌打ちした。別の誰かが息を呑む。足を治された兵は、椅子の上で拳を握っていた。
「魔族に治されて帰ってきたってこと?」
セレネの声は低かった。
兵は答えに詰まる。その代わり、隊長らしい男が一歩前へ出た。
「火が回りました。撤退時、この者が足を焼き、動けなくなりました。黒い外套の魔族が剣を向けましたが、角のある回復役が止めました」
「止めた?」
「はい。治療を行い、こちらへ戻れと」
角のある回復役。
その言葉で、セレネの脳裏に小柄な魔族の少女がよぎった。
あの日、アードゥが飛び出して庇った相手。赤紫の目。震えていた肩。こちらを見ていた、怯えた顔。
なんだよ。
仕返しでもしてんのか。
セレネは腕を組んだまま、火傷を負った兵を見た。兵は視線を合わせない。
「……畑に火を持ってったの?」
兵の肩がわずかに跳ねた。
レイネが包帯を整え直す手を止める。
リュシオンは、少し離れたところで報告を聞いていた。白銀の鎧には、まだ森の泥が残っている。
「セレネ」
勇者の声が落ちる。
咎める声ではない。けれど、線を引く声だった。
セレネはそちらを見ずに言った。
「聞いてるだけだよ。畑に火を持って行ったのかって」
隊長は少しだけ唇を引き結ぶ。
「魔族領外縁に補給地帯がある可能性を確認する任務でした。必要であれば、焼却によって魔族側の反応を見るよう指示を受けています」
「反応は見えた?」
「……はい」
「で、足も治してもらったわけだ」
セレネの懐には、まだあの手紙がある。
畑を踏むな。
馬鹿みたいな一文。
けれど、今は笑えない。
レイネは包帯を結び直し、立ち上がった。
「治癒痕は実在します。火傷、処置、時間経過にも矛盾はありません。魔族が治した事実はある、と見てよいでしょう」
「魔族が治した事実はある、か」
リュシオンが言う。
「はい。ただし、それを善意と断定するのは危険です。敵兵を治して返すこと自体、心理的な効果を持ちます。こちらの判断を鈍らせる意図も考えられます」
「魔族の工作だ」
リュシオンは言った。
前と同じ言葉だった。
アードゥの手紙も、今回の治療も、同じ線上に置かれる。
「でも、治さなかったら、その兵、死んでたんでしょ」
セレネの声が出た。
少し低い。
火傷の兵が顔を上げる。
リュシオンはセレネを見た。
「だからこそ厄介なんだ」
静かな答えだった。
それが、余計に嫌だった。
レイネは二人の間に目を向ける。
「今回分かったことは三つです。畑は実在する。魔族側は追撃を抑えた。そして、敵兵を治して返した」
そこで一度、言葉を切る。
「どれも、扱いづらい情報です」
「扱いづらい、で済む話かよ」
セレネが言うと、レイネは少しだけ首を傾けた。
「済ませられないから、扱いづらいのです」
セレネは舌打ちしかけて、やめた。
「それで、アードゥは?」
答えるより先に、火傷の兵が掠れた声を出した。
「いました」
セレネはそちらを見る。
「何してた」
「水を、運んでました」
「水?」
「桶です。何度も。火の方へ。それから、濡れた布とか、薬箱とか。魔族に指示されていたのか、自分で動いていたのかは分かりません。でも、走っていました」
セレネは黙った。
アードゥが剣を振る姿も、魔法を撃つ姿も、うまく想像できない。
でも、水桶を持って走る姿なら、嫌になるくらい想像できた。
あいつは昔からそうだった。
荷の位置と、道と、誰がどこで詰まるかは見ていた。見ていたくせに、余計なものまで見ていた。
そこが腹立たしかった。
「黒い外套の魔族は、追ってこなかったの?」
レイネが聞く。
火傷の兵は首を振った。
「すぐ近くまでは来ました。殺されると思いました。でも、追いきる前に止まりました。何か命令があったのかもしれません」
「角の回復役は」
セレネが聞いた。
兵の喉が動く。
「震えてました」
「震えてた?」
「はい。手が、少し。剣を向けられていたのは俺なのに、その魔族の方も震えていました。でも、治しました」
詰所の外を抜ける風と、革鎧の軋む音だけが残った。
震えながら、治した。
そんなのは、聞いてない。
リュシオンが、ようやく口を開いた。
「アードゥが自分の意思で魔族に協力しているなら、次に会う時は敵だ」
セレネはすぐには答えなかった。
答えれば、何かを決めてしまう気がした。
「……あいつが、自分の意思でそこにいると思う?」
セレネが聞くと、リュシオンは少しだけ目を伏せた。
「分からない。だから確認する」
「確認して、敵だったら?」
「止める」
セレネは笑いかけて、笑えなかった。
「勇者ってのは、面倒だね」
「そうだな」
リュシオンは否定しなかった。
レイネが静かに手を洗う。洗い桶の水が、少しだけ濁った。
「セレネ」
「何」
「その手紙は、まだ持っているのですね」
レイネは見ていないようで、見ていた。
セレネは懐の上から紙の感触を押さえる。
「あとで燃やすって言ったでしょ」
「まだ、あとではないのですか」
「うるさい」
短く返した。
レイネはそれ以上、何も言わなかった。
詰所の外で、誰かが火油の壺を片づけている音がした。
空の壺が木箱に当たり、乾いた音を立てる。
セレネはその音を聞きながら、火傷の兵へ視線を戻した。
「あの回復役、何か言ってた?」
兵は少し考えた。
「許したわけじゃない、と」
セレネの指が、懐の中の手紙を少しだけ握った。
「それから?」
「ここで死なれると、魔王様が困る。それが嫌なだけ、と」
魔王様。
アードゥが妙な顔をして見ていた相手。
その名前が、火傷を治された兵の口から出てくる。
レイネが火傷の兵に、もう一度包帯を巻き直している。
リュシオンは黙って外を見ている。
境界の森は、夕方の光を吸って暗くなり始めていた。
セレネは懐の中の紙を握ったまま、焚き火の方を見た。
火は、すぐそこにある。
それでも、紙はまだ燃えていなかった。




