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雨音を編む鐘職人は、聞こえない監査官と未来を鳴らす  作者: 銀細工ナギ


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10/20

消された記録

 翌朝、リゼットとユアンは、赤い糸で埋め尽くされた地図を王立文庫へ持ち込んだ。


 水路の記録は、管理所より文庫のほうが古く、詳しい。王都が今の形になる前から、地下の流れは何度も引き直されてきた。採水路の位置、堤壁の材質、過去の崩落。すべてが記されているはずだった。


 だが、閲覧室の司書は、二人の申請書を見て眉をひそめた。


「南区の旧採水路ですか。閲覧制限がかかっています」


「危険箇所の調査に必要なのです」


 ユアンが監査官の証票を差し出すと、司書はそれを確認し、奥の棚から分厚い台帳を運んできた。


「百年前の水路記録です。現行の管理図と照合してください」


 台帳の紙は黄ばんでいた。リゼットは慎重に頁をめくった。古い地図には、地下水路から外縁の貯水池へ伸びる細い線が描かれている。採水路の途中には、いくつもの注記があった。


 ――春季、流量安定。

 ――壁面に浸水跡。

 ――南区への分水を増設。


「ここに、異常の記録があるわ」


 リゼットが指したのは、二十年前の頁だった。採水路の壁面に亀裂が見つかり、補修工事を行ったという記載がある。


「でも、補修済みになっている」


 ユアンは頁に指を置いた。紙を通じて、彼は誰かが最近触れた痕跡を探るように指先を滑らせた。


「この台帳、綴じ直されている」


「分かるの?」


「糸が新しい。ほかの頁と張りが違う」


 リゼットは台帳を閉じず、綴じ目を覗き込んだ。背表紙の内側に、薄い切れ目があった。刃物で頁を抜き取り、別の紙を差し込んだ跡だ。


 司書を呼ぶと、彼は青ざめた。


「そんなはずは……この台帳は、私が引き継いだときから」


「いつ、整理された記録ですか」


「三年前です。水路管理部から、不要になった古文書を移管されたときに」


「移管した責任者の名前は?」


 司書は記録簿をめくった。


「ヴァルド……水路資材組合の顧問、ヴァルド・エルネです」


 空気が止まった。


 ヴァルドは鐘の設計を盗み、組合を使ってリゼットを追放した男だった。だが、彼が消したのは設計図だけではない。水路の記録まで改ざんしていた。


 司書は棚の奥から、移管前の整理目録を探し出した。そこには、現在の台帳にはない項目が一つだけ残っていた。


 ――採水路南壁、補修未完了。継続監視。

 ――特定業者による夜間採水を確認。

 ――水圧低下の原因、調査中。


「夜間採水?」


 リゼットが読み上げると、ユアンの顔が硬くなった。


「誰かが、王都の水路から許可なく水を抜いていた」


 目録の次の頁は破られていた。けれど、紙の端に鉛筆の跡が残っている。リゼットは机へ紙を置き、柔らかな炭を横に寝かせてこすった。


 浮かび上がったのは、消された文字だった。


 ――渇水期に備え、外縁貯水池へ大量移送。

 ――採水装置は旧分岐に設置。

 ――公表すれば、王都の配水計画に支障。


「貯水池へ移していたのではないわ」


 リゼットは気づいた。


「外縁貯水池から、誰かが水を運び出していたのよ。だから水路の壁が、逆向きに引かれている」


 ユアンは記録の振動を読むように、机上の紙へ手を置いた。


「ヴァルドは、渇水が起きることを知っていた。水が足りなくなれば、組合の高価な浄水器や輸送用の鐘が売れる。危険な採水を続けるために、異常の記録を消した」


「それだけじゃない」


 リゼットは目録の端を見つめた。


「採水装置を動かすには、壁の補修を壊す必要がある。今のひびは、古い傷を利用して広げられたものよ」


 背後で、棚のどこかから小さな音がした。


 ユアンがすぐに立ち上がる。杖の先が床を探り、振動の逃げる方向を示した。


「誰かいる」


 司書が声を上げるより早く、閲覧室の扉が閉じられた。外から鍵を掛ける音が響く。


 リゼットは台帳を抱えた。ユアンが扉へ近づき、蝶番の揺れを確かめる。


「古い錠だ。三度叩けば、金具がずれる」


「なら、三度叩いて」


 彼が杖で扉を叩く。二度目で錠が震え、三度目に木片が床へ落ちた。


 二人は廊下へ飛び出したが、窓の外には誰の姿もなかった。ただ、濡れた靴跡が地下書庫の階段へ続いている。


 リゼットは台帳を胸に抱きしめた。


「証拠は、これだけじゃ足りないわ」


「分かっている。けれど、消された記録が存在したこと自体が証拠になる」


「ヴァルドは、きっと否定する」


「なら、消せない記録を作る」


 ユアンは彼女の手から台帳を受け取り、再び返した。


「君の鐘で、この水路の今を記録する。住民の報告も、ひびの振動も、誰にも消せない形で残す」


 リゼットは頷いた。


 王立文庫の高い窓から、細い雨が見えた。遠くで鐘が鳴っている。けれど彼女には、その音よりも、床下を走る不穏な揺れのほうがはっきり感じられた。


 消された記録の下で、まだ水は奪われ続けている。


 二人は台帳を抱え、地下水路へ向かった。

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