消された記録
翌朝、リゼットとユアンは、赤い糸で埋め尽くされた地図を王立文庫へ持ち込んだ。
水路の記録は、管理所より文庫のほうが古く、詳しい。王都が今の形になる前から、地下の流れは何度も引き直されてきた。採水路の位置、堤壁の材質、過去の崩落。すべてが記されているはずだった。
だが、閲覧室の司書は、二人の申請書を見て眉をひそめた。
「南区の旧採水路ですか。閲覧制限がかかっています」
「危険箇所の調査に必要なのです」
ユアンが監査官の証票を差し出すと、司書はそれを確認し、奥の棚から分厚い台帳を運んできた。
「百年前の水路記録です。現行の管理図と照合してください」
台帳の紙は黄ばんでいた。リゼットは慎重に頁をめくった。古い地図には、地下水路から外縁の貯水池へ伸びる細い線が描かれている。採水路の途中には、いくつもの注記があった。
――春季、流量安定。
――壁面に浸水跡。
――南区への分水を増設。
「ここに、異常の記録があるわ」
リゼットが指したのは、二十年前の頁だった。採水路の壁面に亀裂が見つかり、補修工事を行ったという記載がある。
「でも、補修済みになっている」
ユアンは頁に指を置いた。紙を通じて、彼は誰かが最近触れた痕跡を探るように指先を滑らせた。
「この台帳、綴じ直されている」
「分かるの?」
「糸が新しい。ほかの頁と張りが違う」
リゼットは台帳を閉じず、綴じ目を覗き込んだ。背表紙の内側に、薄い切れ目があった。刃物で頁を抜き取り、別の紙を差し込んだ跡だ。
司書を呼ぶと、彼は青ざめた。
「そんなはずは……この台帳は、私が引き継いだときから」
「いつ、整理された記録ですか」
「三年前です。水路管理部から、不要になった古文書を移管されたときに」
「移管した責任者の名前は?」
司書は記録簿をめくった。
「ヴァルド……水路資材組合の顧問、ヴァルド・エルネです」
空気が止まった。
ヴァルドは鐘の設計を盗み、組合を使ってリゼットを追放した男だった。だが、彼が消したのは設計図だけではない。水路の記録まで改ざんしていた。
司書は棚の奥から、移管前の整理目録を探し出した。そこには、現在の台帳にはない項目が一つだけ残っていた。
――採水路南壁、補修未完了。継続監視。
――特定業者による夜間採水を確認。
――水圧低下の原因、調査中。
「夜間採水?」
リゼットが読み上げると、ユアンの顔が硬くなった。
「誰かが、王都の水路から許可なく水を抜いていた」
目録の次の頁は破られていた。けれど、紙の端に鉛筆の跡が残っている。リゼットは机へ紙を置き、柔らかな炭を横に寝かせてこすった。
浮かび上がったのは、消された文字だった。
――渇水期に備え、外縁貯水池へ大量移送。
――採水装置は旧分岐に設置。
――公表すれば、王都の配水計画に支障。
「貯水池へ移していたのではないわ」
リゼットは気づいた。
「外縁貯水池から、誰かが水を運び出していたのよ。だから水路の壁が、逆向きに引かれている」
ユアンは記録の振動を読むように、机上の紙へ手を置いた。
「ヴァルドは、渇水が起きることを知っていた。水が足りなくなれば、組合の高価な浄水器や輸送用の鐘が売れる。危険な採水を続けるために、異常の記録を消した」
「それだけじゃない」
リゼットは目録の端を見つめた。
「採水装置を動かすには、壁の補修を壊す必要がある。今のひびは、古い傷を利用して広げられたものよ」
背後で、棚のどこかから小さな音がした。
ユアンがすぐに立ち上がる。杖の先が床を探り、振動の逃げる方向を示した。
「誰かいる」
司書が声を上げるより早く、閲覧室の扉が閉じられた。外から鍵を掛ける音が響く。
リゼットは台帳を抱えた。ユアンが扉へ近づき、蝶番の揺れを確かめる。
「古い錠だ。三度叩けば、金具がずれる」
「なら、三度叩いて」
彼が杖で扉を叩く。二度目で錠が震え、三度目に木片が床へ落ちた。
二人は廊下へ飛び出したが、窓の外には誰の姿もなかった。ただ、濡れた靴跡が地下書庫の階段へ続いている。
リゼットは台帳を胸に抱きしめた。
「証拠は、これだけじゃ足りないわ」
「分かっている。けれど、消された記録が存在したこと自体が証拠になる」
「ヴァルドは、きっと否定する」
「なら、消せない記録を作る」
ユアンは彼女の手から台帳を受け取り、再び返した。
「君の鐘で、この水路の今を記録する。住民の報告も、ひびの振動も、誰にも消せない形で残す」
リゼットは頷いた。
王立文庫の高い窓から、細い雨が見えた。遠くで鐘が鳴っている。けれど彼女には、その音よりも、床下を走る不穏な揺れのほうがはっきり感じられた。
消された記録の下で、まだ水は奪われ続けている。
二人は台帳を抱え、地下水路へ向かった。




