私の名前で作る
地下水路へ下りる階段は、雨の湿り気を吸って黒く光っていた。リゼットは片手に灯り、もう片方に、王立文庫から持ち出した写しの束を抱えていた。原本は文庫へ返した。けれど、消された記録を炭で浮かび上がらせた紙と、現在の水路図を重ねた写しは、二人の手元に残っている。
先を歩くユアンが立ち止まった。
「ここから、振動が変わる」
彼は杖の先を石床に当てた。水の流れに混じって、規則正しい震えが伝わってくる。遠くで何かが回転しているような、低く鈍い揺れだった。
「採水装置ね」
「おそらく。だが、近づく前に決めておきたい」
「何を?」
「これを、誰の承認で公表するかだ」
リゼットは眉を寄せた。
「証拠を見つけたら、そのまま審査会へ出せばいいでしょう」
「審査会はまだ開かれていない。組合が握っている資料だけで判断される可能性もある。君の設計が盗用されたものだと、先に認めさせなければ、記録も私たちの主張も揉み消される」
ユアンは紙束に触れた。指先が震えを探るように、端から端へ滑る。
「だから、君自身の名で設計を公表する必要がある」
「私の名で?」
「盗まれた設計を取り戻すだけではない。今の水路を測る鐘を、新しい設計として登録する。君が作ったものだと、誰もが確認できる形で」
その言葉は、胸の奥に残っていた古い痛みに触れた。
工房を追われた日から、リゼットは自分の名を口にすることを避けていた。失敗した鐘の責任者。盗まれた設計の元職人。誰かに貼られた呼び名が、彼女の本当の名を覆っていた。
「また盗まれたら?」
「今度は、盗まれたと叫ぶだけの証拠を作る」
「それでも、組合が私を嘘つきだと言ったら?」
ユアンは顔を上げた。音のない世界で、彼は彼女の声の揺れを聞き取ろうとしているようだった。
「私が監査官として証言する」
「あなたの立場まで危うくなるわ」
「すでに危うい。君と調査を始めた時点で、私は組合にとって都合のいい監査官ではなくなった」
淡々とした言い方だった。だからこそ、リゼットはその決意の重さを感じた。
二人はさらに進んだ。地下水路の壁には、古い補修跡が幾重にも重なっていた。その中央に、新しい鉄管が食い込んでいる。管の先には、巨大な羽根車が取り付けられていた。水流を吸い上げるたび、壁全体がわずかに震える。
リゼットは鐘の試作器を取り出した。小さな金属板を壁へ押し当て、記録針を動かす。針は一定の間隔で跳ね、そのたびに亀裂の線が紙へ刻まれていった。
「これは、壁が鳴っているんじゃない」
彼女は記録紙を覗き込んだ。
「羽根車の振動が、補修されていない古いひびを広げている。あと数日、採水を続けたら、南区の分岐ごと崩れるわ」
「止められるか?」
「今は無理。水圧が一気に変われば、別の場所が裂ける」
ユアンは装置へ近づき、鉄管に手を添えた。振動の間隔を確かめてから、傍らの弁を指した。
「この弁を少しずつ閉じれば、流れを分散できる」
「でも、誰かがまた開ける」
「だから、開けた記録も残す」
リゼットは新しい紙を取り出した。震える針の下へ、日付と場所を書き込む。紙の上部には、まだ空欄があった。
設計者名。
ペン先を握ると、指がこわばった。ユアンは何も言わず、彼女の隣に立った。支えるために触れることも、代わりに書くこともしなかった。ただ、彼女が決める時間を待っていた。
リゼットはゆっくりと名前を書いた。
リゼット・アルネ。
その下に、新設計の名を記す。
雨音記録鐘・改式一号。
書き終えた瞬間、遠くで羽根車が大きく唸った。壁の亀裂から細い水が噴き出し、灯りの炎が揺れる。
ユアンが杖を構えた。
「今の振動を記録したか」
「ええ。ここにある」
リゼットは紙を胸元へ押し当てた。
「これを王都中に公表する。盗用の疑いがあるからではない。私が、私の名で作った鐘が、この水路を守れると示すために」
「そうしよう」
「あなたも、監査官の名で署名して」
ユアンは少しだけ目を見開いた。
「私が?」
「あなたの振動記録がなければ、この設計は完成しない。これは私一人の鐘じゃないわ」
彼は紙の余白へ手を置いた。音を聞けない彼の指が、刻まれた波形を読む。
「なら、二人分の記録だ」
「二人分?」
「まだ設計図は一枚だが、証拠は二つの感覚で確かめた。君の目と手、私の指先。その両方を残す」
リゼットは笑いかけ、すぐに顔を伏せた。胸の奥が、地下水路の振動とは違う仕方で揺れていた。
二人は弁をわずかに閉じ、装置の記録を採取した。帰り道、リゼットは写しの束を抱え直した。そこには、消された記録の跡だけでなく、これから書き加える新しい頁がある。
地上へ出ると、雨は少し強くなっていた。
リゼットは濡れた広場の中央で、設計者名の欄をもう一度見た。自分の名前は、思っていたよりも小さく、けれど確かに紙の上に残っている。
「明日、王都へ公表する」
彼女が言うと、ユアンは頷いた。
「私も立ち会う」
「後悔しない?」
「君は?」
リゼットは空を見上げた。雨粒が頬に触れる。
「怖いわ。でも、もう誰かの名前の陰に隠れるほうが怖い」
二人の足元で、雨水が細い溝へ流れ込んだ。新しく作る鐘は、その一滴一滴を記録するだろう。
リゼットは紙を抱きしめた。
「私の名前で作る。今度こそ、誰にも消させない」




