地下水路のひび
組合会館を出た翌日、リゼットとユアンは、工房を置く場所を探して王都の南側へ向かった。
空き倉庫を三軒見て回ったが、どこも鐘を試すには狭すぎた。ひとつは天井が低く、もうひとつは床が腐っていた。最後の建物は広かったものの、水路から遠く、材料を運ぶだけで一日が終わってしまいそうだった。
「工房は、まだ見つからないわね」
リゼットが言うと、ユアンは返事の代わりに足を止めた。
彼は通りの中央で、杖の先を石畳に当てている。目を閉じ、握った柄に意識を集中させていた。
「どうしたの?」
「下で、流れが乱れている」
「水路が?」
「水が流れている振動に、細い揺れが混じっている。一定ではない。何かが、周期的にたわんでいる」
リゼットは石畳へ耳を近づけた。もちろん、聞こえるのは馬車の音と人々の声ばかりだった。だが、彼女にはユアンの指先が読んだものを確かめる方法がある。
「鐘を出すわ」
鞄から小さな試験鐘を取り出し、路地の壁に吊るした。雨音を記録するための鐘ではなく、地下の振動を拾うために改造したものだ。胴の内側に薄い金属片を貼り、揺れが生じると、ごく小さく震える仕組みになっている。
リゼットが棒で縁を叩くと、鐘は短く震えた。
その震えが消える前に、地下から別の揺れが返ってきた。
金属片が、かすかに跳ねる。
「今のは……」
「同じだ」
ユアンは石畳に手を置いた。
「ここから北東へ向かっている。水が壁を押しているような揺れだ」
王都の地下には、古い水路が何重にも走っている。地上の人々が普段使う水路のほか、雨水を逃がすための細い管や、かつて閉じられた採水路もある。記録上は安全とされていたが、古いものでは百年以上前に造られた区画もあった。
二人は水路管理所へ向かった。
だが、窓口の男は、話を聞くなり首を振った。
「南区の地下水路に異常? そんな報告はない」
「報告がないから調べてほしいのです」
「鐘職人の感覚だけで、作業員を動かせると思うかね」
「私だけではありません」
ユアンが王立水路監査官の証票を示した。男は一瞬だけ姿勢を正したが、すぐに書類へ目を落とした。
「監査官殿、先月の検査では問題なしです。水圧も規定内。勝手に封鎖すれば、町の配水に支障が出ます」
「検査はいつ行った」
「先月の十二日」
「その後、雨は三度降った」
「だから?」
「地下の状態は変わる」
ユアンの声は穏やかだった。しかし、窓口の台へ置かれた彼の手が、細かな振動を伝えるように震えている。
リゼットは試験鐘を取り出した。
「この鐘は、地上の音を記録するものではありません。水路の壁が動いたとき、その揺れを拾います。今朝から同じ反応が続いている。もし亀裂があるなら、放置したほうが被害は大きいはずです」
男は鐘を見た。けれど、信用する気はないらしい。
「正式な調査依頼を書いてください。順番に処理します」
「順番を待っている間に崩れたら?」
「責任は取れませんな」
追い返されるように管理所を出た二人は、南区の水汲み場へ向かった。
そこには、以前鐘を修理した孤児院の子どもたちと、近所の住民が集まっていた。リゼットの姿を見つけた少女が駆け寄ってくる。
「鐘のお姉さん、どうしたの?」
「地下の水路が、少し変なの。みんな、この近くで水の出方がおかしい場所を見なかった?」
住民たちは顔を見合わせた。
やがて、パン屋の女主人が手を挙げた。
「三日前から、朝になると水の勢いが弱いのよ。昼には戻るけれど」
「うちは濁りが出た」
「井戸の蓋が、夜中に鳴ることもある」
ひとつひとつは小さな変化だった。管理所の記録には、異常として残らない程度の。
だが、リゼットはそれらを聞いて、胸の奥で別の設計図が組み上がっていくのを感じた。
「水路は、一か所だけではないわ」
ユアンが頷いた。
「ひびが広がっている」
二人は住民に協力を求めた。水汲み場、井戸、地下倉庫。水に関わる場所で、いつもと違う揺れや水の変化がないか、印をつけてもらうことにした。
リゼットは試験鐘を三つに分け、子どもたちには使い方を教えた。鐘を吊るし、一定の間隔で縁を叩く。返ってくる震えが強ければ赤い糸、弱ければ青い糸を結ぶ。
音を聞き分けられなくても、記録はできる。
特別な資格がなくても、町の人々は自分たちの暮らす場所を観察できる。
夕方までに、南区のあちこちから報告が集まった。赤い糸は、地下水路の古い分岐に沿って並んでいる。
その先にあるのは、使われていない採水路だった。
リゼットは地図を広げた。採水路は王都の外縁にある貯水池へつながっている。もし壁の亀裂から水が漏れているなら、王都の水不足は自然な渇水ではない。見えない地下で、少しずつ水が失われているのだ。
「管理所へ戻りましょう」
ユアンが言った。
「今度は、住民の記録も持っていく」
「それでも動かなかったら?」
リゼットは、赤い糸の束を握りしめた。
「動くまで、町中に知らせるわ。水路を守るのは、組合だけの仕事じゃないもの」
その夜、二人は旧測定所へ戻り、集まった記録を一枚の地図にまとめた。
地図の上で、赤い糸はひとつの線になっていた。
それは地下を走るひびの形だった。
工房を作る場所を探していたはずなのに、二人は王都全体の危機の入口へたどり着いていた。
リゼットは震える鐘を見つめた。
「この亀裂を直すには、私たちだけでは足りない」
「王都全体の協力が必要だ」
「なら、協力を頼む。組合に認められなくても、住民に知らせることはできる」
ユアンは地図の端を押さえた。
「危険もある。ヴァルドがこの異常を隠したがっているなら、知られたくない理由があるはずだ」
リゼットは少しだけ黙った。
怖くないわけではない。工房を失い、名前を奪われ、それでも作ると決めたばかりだった。ここでまた何かを失えば、今度こそ立てなくなるかもしれない。
それでも、地下で水が流れ続けている。
見えないひびの向こうで、王都の明日が削られている。
「それでも、見つけた以上は黙れないわ」
ユアンは答えず、彼女の手の甲に指を置いた。
床下から、かすかな振動が伝わってくる。
ひびは、まだ広がっていた。




