判断
開け放たれた縁側から、夏の風がゆっくりと部屋を抜けていく。
天音は冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、グラスへ静かに注いだ。氷が小さく音を立てる。その涼しげな音だけが、部屋の静寂を和らげていた。
「どうぞ。」
天音は涼太の前へグラスを置く。
涼太は「ありがとうございます」と小さく頭を下げたが、すぐに手を伸ばすことはできなかった。
脳移植。
自分が狙われているという話。
数時間ほど前までは、想像すらしたことのない世界だった。頭では理解しようとしている。だが、心が追いつかない。
ようやく麦茶を一口飲み、ゆっくり息を吐いた。
「……まだ信じられません。」
正直な気持ちだった。
佐伯(犬)は静かに頷いた。
「当然だ。」
「私でも、突然同じ話を聞かされたら信じない。」
その穏やかな口調に、涼太の肩から少しだけ力が抜ける。
佐伯(犬)は続けた。
「だから、一つずつ説明しよう。」
「まずは、君自身についてだ。」
「僕……ですか。」
「そうだ。」
佐伯(犬)は落ち着いた声で言う。
「私たちは、葉山病院の検査結果を見たわけではなく、追加検査で何を調べたのかもわかっていない。あくまで私の推測として聞いて欲しい。」
涼太は頷いた。
佐伯(犬)は続けた。
「だが、その推測には根拠がある。」
部屋が静かになる。
佐伯(犬)は涼太をまっすぐ見つめた。
「検査の時、地下へ案内されたか。」
涼太は目を見開き、答える。
「受付のあと、エレベーターで地下へ行きました。」
天音は思わず佐伯(犬)の方を見る。
「やっぱり……。」
佐伯(犬)は静かに目を閉じ、小さく息を吐いた。
「間違いない。」
「君は、地下の研究施設へ案内されている。」
涼太は眉をひそめた。
「研究施設……?」
「葉山病院は表向き、地下に診療施設はなく、あるのは、研究施設なんだ。」
「私は、そこで研究をしていた。」
その一言に、涼太の表情が変わる。
「じゃあ……。」
「あの検査は。」
佐伯(犬)は静かに頷いた。
「脳移植を前提とした検査だ。」
部屋の空気が、一段と重くなる。
涼太は無意識に自分の腕を見つめた。昨日までと何も変わらないのに、自分の身体が自分のものではない感覚に襲われた。
「人間の身体には、それぞれ個体差がある。」
「血液型が違うように。」
「骨格が違うように。」
「神経にも違いがある。」
「脳移植では、この神経が最も重要になる。」
「脳は生きていても。」
「身体の神経を受け入れられなければ、人は生きられない。」
涼太は真剣な表情で頷いた。
「だから検査を……。」
「そうだ。」
「地下で行われる検査は、その可能性を調べるものだ。」
「つまり。」
「その人間の身体が、どれだけ脳移植に適しているか。」
そこまで聞いて、涼太はゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ。」
「僕は、その可能性が高かった……。」
佐伯(犬)は静かに頷く。
「推測だ。」
「だが、私はそう考えている。」
「葉山は。」
「価値のない身体を、地下まで連れて行かない。」
「検査にも時間を掛けない。」
「ましてや、一般の健康診断のデータを葉山病院へ送らせる理由もない。」
天音が静かに言葉を続ける。
「私たちが受信したのは、葉山病院へデータが送られたという事実だけ。」
「でも、それだけで十分でした。」
「佐伯さんは、すぐに『涼太さんが危ない』そう判断しました。」
涼太はゆっくりと麦茶を口に運ぶ。
「もし……。」
「もし本当にそうなら、いつ狙われるんですか。」
佐伯(犬)は首を横に振った。
「それは分からない。」
「葉山が必要だと判断した、その時だ。」
その静かな言葉が、涼太の胸に重く沈んだ。
「葉山は正面から君を奪うような人間ではない。」
「事故。」
「急病。」
「失踪。」
「どんな形になるかは分からない。」
「だが、次に葉山病院へ行く時は、君の身体は器として葉山に扱われる。」




