接触
美冬が部屋を出た頃、東京から少し離れた住宅街では、夕暮れの光が古い木造家屋を静かに包み込んでいた。
天音は縁側へ腰を下ろし、冷めかけた珈琲をゆっくりと口へ運ぶ。ほとんど味は感じていなかった。
考えることが多すぎる。
視線の先では、一匹の犬型ロボットが庭を眺めている。毛並みは本物と見分けがつかないほど精巧で、ときおり耳を動かす仕草まで自然だった。
「佐伯さん、まだ考えてるの?」
天音が小さく声を掛ける。
佐伯(犬)は庭から視線を外さないまま答えた。
「考えている。」
その声には、人間だった頃の落ち着きが残っている。
長い年月を経ても、佐伯という人格だけは、この小さな身体の中に存在しているように思える。
「葉山が動くことは間違いない。」
天音はカップを膝へ置く。
「神崎も?」
「可能性はある。」
「問題は誰が欲しがっているかじゃない。」
そこで佐伯(犬)はようやく天音を見た。
「いつ必要になるかだ。」
天音は言葉を失う。
確かにそうだった。天音たちからは、誰が涼太の身体を必要としているかまではわからない。
明日かもしれない。
半年後かもしれない。
5年後かもしれない。
しかし、その時が来た瞬間、久遠涼太は”人間”ではなく”器”として扱われる。
それだけは変わらない。
「だから急ぐ。」
佐伯(犬)は静かに言う。
「こちらから接触する。」
「でも、どうやって?」
天音は身を乗り出した。
佐伯(犬)はすぐには答えなかった。
縁側の向こうに広がる庭へ視線を向け、しばらく風に揺れる木々を眺めている。考えているというより、すでにいくつもの可能性を計算しているようだった。
「大学へ行く。」
「……東京に?」
「そうだ。」
天音の表情がわずかに曇る。
「危険じゃない?」
佐伯(犬)は静かに頷いた。
「危険だ。」
迷いのない返答だった。
「東京は、この国で最も監視が多い場所だ。」
「街中には無数のカメラがある。人の流れも記録されている。」
天音は黙って聞いていた。
佐伯(犬)は続ける。
「彼は、まだ何も知らない。」
「……信じてくれるかな。」
天音の呟きに、佐伯(犬)は少し間を置いた。
「分からない。」
「全部話すの?」
「最初から全てを話せば、受け止められない可能性がある。」
佐伯(犬)は静かに答える。
「必要最低限だけ伝えて、後は彼が決めることだ。」
佐伯(犬)の声は穏やかだった。
「私たちにできるのは、真実を伝えることだけだ。」
その言葉に、天音は静かに頷いた。
翌朝、東京は夏らしい強い陽射しに包まれていた。
青く澄み切った空には雲がほとんどなく、照り返す光が街路樹の葉を鮮やかに浮かび上がらせている。
天音は駅の改札を抜けると、人の流れへ静かに溶け込んだ。
白の半袖シャツに、淡いブルーのワイドパンツ。
足元は履き慣れた白いスニーカー。深くかぶったキャップの下には細いフレームの眼鏡を掛け、長い髪も低い位置でひとつに束ねている。
特別な変装ではない。
真夏のキャンパスへ向かう、ごく普通の女子大学生。それ以上でも、それ以下でもなかった。
大学の正門をくぐると、構内は講義の合間らしく、多くの学生で賑わっていた。
笑い声。
自動販売機の前で立ち話をする学生。
木陰のベンチで昼食を広げるグループ。
天音は立ち止まらない。視線だけを動かしながら、構内を歩いていく。やがて講義を終えた学生たちが建物から姿を現した。
その中に、一人の青年がいる。
久遠涼太。
写真で見た通りの青年だった。友人たちと笑いながら歩く姿は、どこにでもいる大学生と変わらない。その笑顔を見た瞬間、天音は胸の奥がわずかに痛んだ。
友人たちと別れ、涼太が一人になったところで、天音は静かに歩み寄った。
「久遠さん……ですよね。」
突然名前を呼ばれ、涼太は不思議そうに振り返る。
「はい。」
「どちら様でしょうか。」
天音は一度だけ周囲へ視線を向けた。こちらへ注意を払っている人間はいない。それを確認すると、小さく頭を下げる。
「八代天音といいます。」
涼太は首をかしげた。
「すみません、お会いしたこと……。」
「ありません。」
天音はすぐに答える。
「どうしても伝えなければならないことがあります。」
涼太は困ったように笑った。
「勧誘とかなら……。」
「違います。」
その返事には迷いがなかった。
天音は涼太の目を真っ直ぐ見つめる。
「今月、葉山病院で検査を受けましたよね。」
涼太の表情が止まる。
「……どうして、それを。」
天音は静かに続けた。
「あの検査が行われた理由を、私は知っています。」
数秒の沈黙。
涼太は天音を見つめたまま、小さく口を開いた。
「病院の人……ですか。」
その問いに、天音は静かに首を横へ振った。
「違います。」
「だから、あなたに会いに来ました。」
涼太は困惑した表情のまま天音を見つめる。
「すみません……何を言われているのか、よく分からないんですが。」
天音は一度だけ深呼吸をした。
「あの検査は、健康状態を調べるためだけのものではありません。」
涼太の表情が変わる。
「あなたの身体が、ある条件を満たしているかどうかを調べる検査です。」
「条件?」
「使えるかどうかです。」
その一言に、涼太は思わず苦笑した。
「いや……。」
「身体が使えるって、何の話ですか。」
「誰が使うんです?何のために?」
矢継ぎ早に問い掛けられ、天音はゆっくりと首を振った。
「ごめんなさい。」
「今ここで全部説明しても、きっと信じてもらえません。」
涼太は黙った。
確かに、理解が追いつかなかった。どれも現実離れしていて、まるで映画の話を聞いているようだった。
「でも、一つだけ聞いてください。」
天音は真っ直ぐに涼太を見つめた。
「あなたの身に危険が迫っています。」
「それが今日なのか。」
「一か月後なのか。」
「一年後なのか。」
「それは、私たちにも分かりません。」
「でも、確実にあなたは狙われています。」
涼太は何も言えなかった。
目の前の女性は、脅しているようには見えない。
何かを必死に伝えようとしている。
そのことだけは伝わってきた。
「私たちは、あなたを守りたい。」
「だからお願いです。」
「私について来てもらえませんか。」
「そこで全部、お話しします。」
「聞いてもらって信じてもらえなければ、その場で帰っていただいて構いません。」
涼太はしばらく黙っていた。
目の前の女性は見知らぬ人間だ。普通なら断る。
そう考えるのが自然だった。けれど、葉山病院の検査は涼太自身も違和感を感じていた。
何より、天音の瞳に嘘をついているような濁りが見えなかった。
長い沈黙のあと、涼太は静かに口を開いた。
「……分かりました。」
「正直、まだ何も信じられません。」
「でも。」
「あなたは悪い人には見えない。」
「だから、話を聞きます。」
天音は小さく息を吐き、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
その声には、わずかに安堵が滲んでいた。
「行きましょう。」
天音は歩き出す。
涼太は一度だけ大学を振り返ると、その後ろ姿を静かに追いかけた。




