思惑
葉山病院の地下には、病院関係者であっても存在を知らない区画があった。
外来患者はもちろん、一般病棟の医師や看護師でさえ立ち入ることはできない。病院の案内図にも記されず、電子地図にも表示されないその場所へ辿り着くには、幾重もの認証を通過しなければならなかった。
人を救う病院の地下で、人知れず別の医療が続けられている。
その事実を知る者は、ごくわずかだった。
長い通路を、一人の女性が静かに歩いていた。
床は鏡のように磨き上げられ、天井には白く柔らかな照明が等間隔に並んでいる。足音だけが静寂の中へ溶け込み、やがて何事もなかったかのように消えていく。
前方から、白衣姿の男性医師が歩いてきた。
すれ違う直前、男性は穏やかな声で言う。
「お疲れさまです。」
女性も歩みを止めることなく、同じ調子で返した。
「お疲れさまです。」
言葉は交わされる。
しかし、その声には親しみも労いも感じられない。
社会生活の中で身についた礼節を、記憶どおりに再現しているだけだった。
女性の胸元には、小さな名札が付けられている。
佐伯 美冬
美冬はそのまま通路の最奥へ進み、一枚の重厚な扉の前で足を止めた。
端末を認証装置へかざす。
短い電子音のあと、分厚い扉が静かに左右へ開いた。
部屋の中央には、大きな机がひとつ置かれている。
その奥では、一人の男が静かに端末のデータへ目を通していた。
年齢にすれば50代前半。
仕立ての良い白衣の袖口からは、控えめな輝きを放つ高級時計がのぞいている。決して見せびらかすような派手さはないが、その一本だけで持ち主の地位と財力を物語っていた。恰幅の良い体格で椅子にゆったりと腰掛ける姿には、長年組織の頂点に立ってきた者だけが持つ余裕がある。
端正に整えられた髪にはわずかに白いものが混じり、深く刻まれた皺さえ品格へ変えてしまうような、落ち着いた顔立ちだった。
葉山病院院長 葉山 清人
葉山は230年という歳月を生き続けている。
美冬は机の前まで進み、静かに一礼した。
「ご報告します。」
葉山は画面を閉じ、ゆっくりと顔を上げる。
「久遠涼太。」
美冬は端末を操作しながら報告を続けた。
「神崎総理との神経接続適合率は98.7%でした。」
葉山は何も言わず、机の上へ映し出された数字を見つめていた。
数値だけが青白い光を放ちながら静かに浮かんでいる。
しばらくして葉山は、小さく息を吐いた。
驚きでも喜びでもない。
「私との適合率も確認してくれ。」
「承知しました。」
美冬は即座に照合作業を開始した。
認証。
神経情報の同期。
膨大な情報が高速で解析され、数秒後、新しい数値が画面へ表示される。
「神経接続適合率、97.2%です。」
淡々と読み上げられた数字は、この世界では奇跡と呼ばれるほど高い。葉山は画面を見つめたまま椅子へ深く身体を預ける。
不自由はない。体調にも何の問題もない。
この身体は、どちらかというと気に入っている。
葉山は静かに目を閉じた。
「惜しいな。」
そのひと言だけが、静かな部屋へ落ちた。
美冬は何も答えない。
葉山の言葉に込められた意味を考えることもなく、ただ次の指示を待っている。
「この件は神崎以外には知らせるな。」
「承知しました。」
「それと……久遠涼太の日常を記録しておいてくれ。」
美冬は一瞬だけ沈黙し、確認するように問い返した。
「監視対象として登録しますか。」
葉山は小さい声でゆっくりと言った。
「そうだ。」
「承知しました。」
美冬は一礼すると、静かに部屋を後にした。
重い扉が閉まる音を聞きながら、葉山は一人、机へ肘をつく。




