相棒
八代天音は、縁側に座ってコーヒーを飲んでいた。
朝の光が、古い庭を静かに照らしている。
伸びた草、少し色あせた木の柵。
そこだけが、2300年という時代から取り残されていたようだった。都市では、人々の生活を支える無数のシステムが動いている。けれど、この場所には、そのような未来の姿はなかった。
古い木造の家、小さな台所。窓を開けると聞こえるのは、風が草を揺らす音だけ。
天音は、そんな場所で2年間暮らしていた。
肩まで伸びた黒髪が、朝の風に揺れる。白い肌と細い身体。華奢な姿だけを見れば、どこにでもいる22歳の女性に見える。しかし、その瞳には年齢では測れない静けさがあった。
失ったもの、守るべきもの、そして、決して忘れることのできない過去と取り戻す未来。それらすべてを抱えながら、天音はここで生きてきた。
コーヒーを一口飲む。苦みの中に、わずかな安心を感じる。この時間だけは、何も追われることがなかった。
その隣では、一匹の小さな犬が日差しを浴びていた。
柔らかな茶色の毛、小さな身体に丸みを帯びた顔。そして人懐っこい瞳。
誰が見ても、愛らしい犬にしか見えない。
体には、天音が選んだ服が着せられている。
「佐伯さん」
天音が呼ぶ。
犬はゆっくりと目を開いた。
「充電中です」
落ち着いた男性の声が返ってくる。
天音は小さく笑った。
「せっかく可愛い服を着てるのに、言うことは全然可愛くないね」
「服装によって機能性能が変化することはないからな」
「佐伯さんらしい」
佐伯(犬)はそれ以上、何も言わず、ただ静かに太陽の光を受け続ける。体内に組み込まれた装置が、光をエネルギーへ変換していく。人間ならば、ただ昼寝をしているようにしか見えない姿。
古い家での静かな時間。それは、天音にとって生きているという実感がもてる時間であった。
その日常を、突然、小さな電子音が鳴った。
家の奥に置かれた端末が、自動的に起動する。
佐伯(犬)が顔を上げ
「情報を受信した」
天音はカップを置く。
「誰から?」
「特定の送信者ではない」
佐伯(犬)は端末へ接続する。
「医療機関のデータだ」
画面に表示された情報。
健康診断を行った医療施設から、葉山病院へ送られた記録。
佐伯(犬)は淡々と読み取っていく。
名前。
年齢。
住所。
大学名。
そして、一人の青年の顔。
久遠涼太。
天音は画面を見つめた。
「……誰?」
「健康診断を受けた人物みたいだな」
「20歳の健康診断だね」
「情報だけを見る限り、その可能性は高いな」
佐伯(犬)は少し間を置いた。
「だけど、不自然だな」
「一般的な健康診断の情報を、葉山病院が受け取る理由がない」
天音は画面を見て、言う。
「調べる必要があるね」
佐伯(犬)は黙っている。
天音は続ける
「私が会いに行く」
佐伯(犬)は小さく頷いた。
古い家に、再び静かな時間が戻る。
天音は、久遠涼太の情報が表示された端末をしばらく見つめていた。
画面の中の青年は、どこにでもいる学生に見える。穏やかな表情、特別目立つところのない経歴。
少なくとも、この情報だけでは、葉山病院が関心を持つ理由は分からなかった。
「佐伯さん」
「ん?」
「この人は……適合者?」
佐伯(犬)はすぐには答えなかった。
窓際で日光を浴びながら、内部の演算装置を動かす。
「現時点では判断できないが、可能性は高い」
佐伯(犬)は画面を見る。
昔から、佐伯(犬)は曖昧な答えを嫌う。
分からないことを、分かったようには言わない。それが、彼を信頼できる理由の一つだった。
「でも、葉山病院が関わっている」
天音が呟く。
その名前を聞くだけで、胸の奥に眠らせていた記憶が蘇る。
父親の最後の言葉。
消された記録。
そして、奪われた人生。
天音は、それを忘れるために生きてきたわけではない。いつか真実にたどり着く証拠を掴む為にここで待ち続けていた。
「佐伯さん」
「ん?」
「もし、この人が葉山病院に狙われているなら……」
天音は窓の外を見る。
「助けないと」
佐伯(犬)は静かに天音を見た。
「きみ自身が危険になる可能性があるんだぞ」
「分かってる」
天音は小さく息を吐いた。
「もう、誰かが犠牲になるのを見たくない」
短い沈黙が流れた。
佐伯(犬)は何も言わなかった。ただ、天音の決意を理解していた。彼女が本当に望んでいるもの。
「接触方法を考える」
佐伯(犬)が言った。




