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器ーうつわー  作者: 天城そら


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適合者


 7月の朝、東京の空はまだ眠りから覚めきらない街を、ゆっくりと明るくしていた。


 高層建築の間から差し込む光は、部屋の床に細い線を作る。


 眠気が残り、身体が思うように動かず、もう少しだけ布団の中にいたいと思う気持ち。それは、どれだけ技術が進んでも、人間からなくならないものなのかもしれなかった。


 久遠涼太くのう りょうたは、目を閉じたまま枕元の端末が発する声を聞いていた。


 「おはようございます。現在時刻は7時です。本日の予定を確認しますか」


 返事をする気力もなく、涼太は布団の中で小さく身じろぎした。


 端末は、それを拒否とは判断しなかった。


 「大学での講義開始時刻まで、余裕があります。ですが、そろそろ起床することを推奨します」


 「……分かってる」


 声だけが布団の中から返る。


 「起床の意思を確認しました」


 「意思だけな」


 涼太がそう言うと、端末はわずかな間を置いた。


 「現在も横になっています」


 その言葉に、涼太は思わず笑った。


 「朝から厳しいな」


 「正確な情報を伝えています」


 「そういうところだよ」


 小さく息を吐き、ようやく身体を起こす。


 寝起きの頭はまだ重く、しばらくの間、涼太はベッドの端に座ったまま何もせずにいた。


 東京で暮らし始めて1年。


 最初の頃は、街の速さに驚くことが多かった。


 人の流れは絶えず、必要なものは指先1つで手に入り、誰もが限られた時間を無駄にしないように動いている。


 便利な場所だと思う。


 実際、田舎の山間部で育った涼太にとって、東京の生活は驚くほど快適だった。


 けれど、すべてが便利になったからといって、人が急ぐ理由まで増える必要はない。そう思うことが、涼太にはあった。


 洗面所へ向かい、鏡を見る。そこに映った自分は、寝癖の残った黒髪と、まだ眠気を隠しきれない目をしていた。


 指で髪を整え、水で少し濡らして形を直す。

それで十分だった。


 簡単な朝食を済ませ、リュックを肩に掛ける。

玄関を出ると、夏の熱を含んだ空気が肌に触れた。

街はすでに動き始めていた。


 通勤へ向かう人。


 学校へ向かう学生。


 犬を連れて歩く人。


 子どもの声。


 便利さを追求して作られた都市の中にも、人が暮らしている証だけは昔と変わらず残っている。


 涼太は、そんな景色を眺めながら大学へ向かった。


 最短経路なら、端末が答えを出してくれる。

けれど、涼太は遠回りをすることが多かった。途中で新しくできた店に気づいたり、昨日とは違う街の表情を見つけたりする時間が嫌いではなかったからだ。


 大学構内へ入ると、夏休み前の学生たちの声が聞こえてきた。


 「おーい、涼太!」


 聞き慣れた声に振り返る。


 大島健吾が、いつものように少し大げさに手を振りながら近づいてきた。


 「今日の昼どうする?」


 「まだ決めてない」


 「じゃあ、学食でいいか」


 「うん」


 それだけの会話だった。


 けれど、こういう何気ない会話が、大学生活を充実にさせていたのかもしれない。特別なことでなくても、誰かと同じ時間を過ごすことが。


 午前の講義が始まる。


 教室の前方では教授が淡々と説明を続け、学生たちはそれぞれの端末を使いながら話を聞いていた。


 昔と比べれば、学習環境は大きく変化している。


 必要な資料は瞬時に表示され、理解が難しい部分はAIによる補助説明を受けることもできる。


 それでも、教授の話を直接聞き、同じ空間で学ぶという形は変わっていなかった。学校という場所では、勉強以外に学ぶべきものがあるからなのだろう。


 人は、情報だけを受け取っているわけではないからだ。


 話し方。


 間の取り方。


 その場の空気。


 そうしたものも含めて、人は何かを学んでいる。


 涼太は窓の外へ目を向けた。


 強い日差しの中で、木々が揺れている。


 大学へ通うようになってから、こうして何気なく外を見る時間が増えた。


 故郷にいた頃は、山や川が近くにあることを特別だと思わなかった。


 失ってから初めて気づくものがある。

東京の景色にも、東京でしか見られないものがある。

涼太は、そう思うようになっていた。


 昼休みになると、約束通り健吾たちと学食へ向かった。席につけば、また自然と会話が始まる。


 夏休みの予定。


 最近できた店の話。


 大学周辺の新しい施設。


 話題は次々に変わり、誰も最初の話を最後まで覚えていない。

それでも笑い声は続いていた。


 涼太にとって、こういう時間は、何にも変えられない楽しく、大切な時間だった。


 午後の講義を終え、教室を出る頃には、日が少し傾き始めていた。友人たちと別れ、1人で廊下を歩いている時だった。ポケットの中の端末が、静かに震えた。


 普段なら気に留めない程度の通知であったが、涼太は歩きながら画面を確認する。表示された名前を見た瞬間、足が止まった。


通知を表示させる


 医療機関から先週受けた健康診断の結果通知であった。20歳になると国の義務で全国民が検査をする。

そこには、検査項目の結果が並んでいた。


 身体状態。


 血液検査。


 各種数値。


 そして、最後に表示された判定。

異常なし。

そこまでは、何も問題はなかった。しかし、その下にもう1つの通知が表示されていた。


 追加検査の案内。


 涼太の指が止まる。


 日時。


 場所。


 検査項目。


 必要な情報だけが表示されている。


 理由だけが、どこにも書かれていなかった。


涼太は、しばらく画面を見つめていた。


 表示されている文字は、何度読み返しても同じだった。健康診断の結果に問題がないのなら、なぜ追加の検査が必要なのか。


 考えれば考えるほど、疑問は増えていった。


 もちろん、珍しいことではない。


 2300年の医療では、病気になってから治療するという考え方は古くなっている。身体のわずかな変化を見逃さず、将来的なリスクを可能な限り減らすことが当たり前になっていた。


 健康な人間が、より詳しい検査を受けることもある。それ自体は不思議ではない。それでも、理由のない通知というものは、人の心に小さな引っかかりを残す。


 涼太は自分の部屋へ戻り、荷物を置く。

端末が今日の予定終了を告げる。


 「本日の記録を確認しますか」


 「いい。」


 涼太が短く答えると、端末は静かに待機状態へ戻る。



3日後ー


 涼太は、いつもより少し早く目を覚ましていた。

目覚まし代わりの端末が声をかける前に、自然と目が開いたことが自分でも少し意外だった。


 普段なら、あと少しだけという気持ちが勝ってしまうけれど、今日は先日届いた通知が頭の片隅に残っていた。


 別に、不安で眠れなかったわけではない。ただ、理由の分からないものをそのままにしておくことが、涼太は少し苦手だった。


 布団から出て、いつものように身支度を整える。

鏡の前に立つと、いつもと同じように少し乱れた黒髪が目に入った。指で触りながら、髪を整える。


 簡単な朝食を済ませると、端末が今日の予定を表示した。午前中に医療機関へ向かう予定。


 「行けば問題ないことが分かる。」


 外へ出て、いつもの通学路とは違う方向へ歩き出すと、街の印象も少し変わった。


 指定された医療機関は、都心部にある大きな施設だった。外観だけを見ると、病院というより研究施設に近い感じだ。


受付を済ませると、案内されたのは一般の診療区域とは反対側の通路だった。


 涼太は何気なく周囲を見渡した。


 壁の材質も、照明の色も、先ほどまでいた受付とは少し違っている。


 案内端末に従ってエレベーターへ乗り込む。

表示された階数を見て、涼太は少し眉を動かした。


地下。


 さっきまで聞こえていた人の声、足音、機械の動作音。そうしたものが、いつのまにか聞こえなくなっており、気づけば周囲には静かな空間だけが残っていた。


 エレベーターを降り長い廊下を進む。途中ですれ違う人はいない。壁にはいくつかの扉が並んでいるが、どれも閉ざされたままだった。


 自分の靴が床に触れる音だけが、妙にはっきり聞こえる。


 再びエレベーターに乗り、さらに下へ降りる。


 数字が変化していくのを眺めながら、涼太は小さな違和感を覚えた。


 健康診断の追加検査。


 ただ、それだけのはずだった。


 けれど、ここまで静かな場所へ案内されるとは思っていなかった。


 エレベーターの扉が開く。

その先にあった待合スペースには、人の影はなかった。


 広すぎる空間に、椅子だけが整然と並んでいる。

受付にも、人の姿はない。


 涼太は端末を見る。案内された場所に間違いはなかった。それでも、胸の奥に小さな違和感が残った。


 しばらくすると、奥の扉が静かに開いた。


 「久遠涼太さん。」


 名前を呼ばれ、涼太は顔を上げた。


 声の主は、白衣を着た女性だった。


 「こちらへどうぞ。」


 涼太は立ち上がる。


 扉の向こうへ進む直前、なぜか一度だけ振り返った。誰もいない待合スペース。静まり返った地下の空間。理由は分からない。ただ、何か大切なものの境界を越えるような感覚があった。


 涼太は、その感覚を振り払うように前を向いた。

案内された部屋へ入り、検査が始まった。


部屋の中には、30代半ばほどに見える女性が1人いて、白衣の胸元には、医師の名前と所属だけが表示されている。


 涼太が入ると、女性は端末から視線を上げた。

一瞬だけ、目が合うが、その視線には人を見るというより、観察するという印象があった。


 「久遠涼太さんですね。」


 声は穏やかだった。


 しかし、そこには患者を安心させようとする柔らかさも、相手に興味を持つ気配もなかった。ただ、必要な言葉を必要なだけ発している。そんな印象だった。


 涼太が頷くと、女性は手元の端末を操作した。


 「ここからは私が担当します。」


 それだけ告げると、先ほど案内をしていた女性は静かに部屋を出ていった。


 扉が閉まり、広くない部屋の中に、機械の低い作動音だけが残った。


 「いくつか確認します。」


 女性は画面を見たまま言った。


 「記憶の抜け、意識の混濁、感覚の異常はありますか」


 「特にありません」


質問を終えると、女性は楕円形の磁石のような物体を

「失礼します」という言葉と共に涼太の額に取り付けた。


 「これは?」


 涼太が尋ねる。


 女性は画面を見たまま答えた。


 「神経伝達の状態を確認する検査です。」


 「健康診断では、やらないですよね」


 「通常項目ではありません。」


 それ以上の説明はなかった。


 女性は、涼太の反応を見ることもなく、検査装置の準備を進める。その動きには無駄がなかった。何百回、何千回と同じ作業を繰り返してきたのだと涼太は思った。


 装置を起動させるが、特に何も感じない。

ただ、自分の内側にあるものを、見られているような不思議な感覚だけが残った。


 数分後。


 画面に結果が表示されると女性の指が止まった。

それは、ほんのわずかな時間だった。けれど、涼太はその変化を見逃さなかった。


 「何かありましたか」


 女性は表情を変えることなく顔を上げた。


 「いいえ。」


 返事は早かった。


 「測定結果を確認しただけです。」


 そう言って、再び画面へ視線を戻す。


 涼太は、それ以上聞かなかったが、昔から、相手の表情や声の変化には気づきやすかった。だからといって、すべてを問いただす性格ではなかった。


 検査は、その後もしばらく続いた。


 神経反応。


 情報処理速度。


 外部刺激に対する同期状態。


 涼太には、何の検査をしているのかは、わからなかった。ただ、目の前の女性が、普段の健康診断とは違う何かを見ていることだけは感じていた。


 やがて、端末に最後の数値が表示された。


 神経接続適合率98.7%。涼太の方からは画面が見えない。その数字を確認した瞬間、女性は何も言わなかった。言わなかったのではなく、言葉を必要としていないようにも見えた。


 「検査は以上です。特に問題はありませんでした。」


 女性は淡々と告げた。


 「そうですか…」


 涼太は頷いた。


 安心した、というより、少しだけ拍子抜けしたような気持ちだった。ここへ来るまでに感じていた違和感は、結局何だったのか。理由の分からない検査、地下にある静かな施設。けれど、聞いたところで答えが返ってくる気はしなかった。


 涼太は立ち上がる。


 「ありがとうございました。」


 女性は小さく頷いただけだった。


 涼太が部屋を出ると間もなく、女性は感情のない表情のまま、極秘回線を開く。


 そして、短い報告だけを送った。


 ――適合者の確認

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