疑問
神崎は机の上に置かれた昼食を、しばらく眺めていた。栄養、カロリー、塩分、脂質、神崎の身体の状態をすべて分析した上で、AIがその日の食事を決めている。
神崎は料理を眺め、箸を取り、焼き魚を口にする。
半分ほど食べたところで、神崎は箸を置いた。
「……もういい」
食事を下げるよう指示しようとして、神崎の手が止まった。
――私は、何が食べたいんだ
答えが出てこない。そのことが、妙に恐ろしかった。
午後、政府庁舎で記者会見が行われた。神崎が会場に入ると、すぐに病状についての質問が飛んだ。
「総理、現在のご体調について伺います。今後、身体機能が維持できなくなった場合、NCTによって別の身体へ移るお考えはありますか」
神崎は、一瞬だけ目を伏せた。
「国民の期待に応えるために、必要であれば検討します。もし、提供者との巡り合わせがあれば、私はNCTを受けるでしょう」
カメラのシャッター音が重なった。神崎は表情を変えなかった。
次の質問が飛んできた。
「政府が進めているアルコール類を禁止する政策について伺います。AIの分析では、飲酒による暴力事件や交通事故、家庭内トラブルなどが大幅に減少し、医療費の削減や国民の健康状態の改善にもつながるとされています。国民の幸福度も上昇すると予測されていますが、総理はこの政策をどう評価していますか」
神崎は、少しだけ間を置いた。
「……AIの分析では、非常に高い効果が期待されています」
「総理自身も、国民は幸福になると?」
神崎は記者を見た。
「あなたは、どう思いますか」
「私ですか?」
「ええ。この政策で、あなたは幸せになりますか」
記者は困ったように笑った。
「……お酒を飲まないことで健康になりますし、事件も減るのであれば、幸せになるのではないでしょうか」
「そうですか」
神崎はそれ以上追及しなかった。別の記者が質問すると、神崎は、その記者にも尋ねた。
「あなたは?」
「私も……良い政策だと思います」
「良い政策ではなく、あなた自身は幸せになると思いますか」
記者の表情が曖昧になる。
「……そうですね。幸せだと思います」
神崎は黙って聞いていた。
さらに別の記者にも尋ねる。
「あなたは?」
「私も、国民の健康につながるのであれば賛成です」
飲酒による事故は減り、病気も減る。犯罪も減少し、社会は安全になる。AIの計算では、すべてが良い方向へ向かう。100年前にはタバコを禁止にしたことで、当時の愛煙家は苦しんだが、現在はタバコの存在自体が忘れられている。お酒も100年後には飲まないのが当たり前になる。
それなのに――。
神崎は、記者たちの顔を見つめた。誰も、嬉しそうには見えなかった。
昼食の時に感じた、あの感覚が蘇り、自分は何が食べたいのか分からなくなっている。食事というものは、もっと楽しいものだったはずだ。
安全、健康ーー
正しいからーー
その先にあるものを、神崎は考え始めていた。
「……ありがとうございました」
神崎は席を立った。
会見場を出る直前、ふと足が止まり、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
「正しいことと、幸せなことは……同じなのか」
答える者はいなかった。
記者会見を終えた神崎は、執務室へ戻ると、壁面の映像を起動した。ちょうど、昼間の会見を受けた報道番組が始まったところだった。
画面には、政府が進める政策について、街の人々へ行ったインタビューが映し出されている。
『お酒の禁止についてどう思われますか?』
そう聞かれた中年の男性が、困ったように笑った。
『俺は酒が好きだからね。仕事が終わって、家で一杯飲むのが楽しみなんだ。それまでなくされたら、何を楽しみに生きればいいんだって思うよ』
別の女性も、酒を楽しみにしていると話していた。
反対意見だけではない。
医師は、飲酒量が減れば生活習慣病のリスクが下がり、健康寿命が延びる可能性を説明している。専門家は、飲酒に起因する事故や暴力事件が減少し、医療や治安への負担も軽くなると語っていた。
どちらの言葉にも、間違いはなかった。
神崎は椅子に座ったまま、画面を見つめていた。
健康になって、寿命が延びる。AIが示している数字も、それを裏付けている。
けれど――。
幸福度と引き換えに『楽しい』という感情を奪っているのではないか。
――寿命が延びれば、それだけ幸せなのか。
どちらが正しいのか答えは出ない。もしかすると、最初から一つの答えを出そうとすること自体が間違っていたのかもしれない。
神崎は、深く椅子に身体を預けた。
政治家になったばかりの頃の自分なら、どうしただろう。そんな問いが、胸の奥に浮かび、神崎は、初めて自分の政策について、AIではなく自分自身に問い直していた。
神崎が画面を閉じようとした時、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「……っ」
反射的に胸元を押さえ、痛みはすぐに消えた。神崎は椅子に座ったまま、ゆっくり息を吐いた。
最近、こうしたことが増えていた。
以前なら気にも留めなかった身体の変化が、今ははっきりと分かる。少し歩いただけで息が上がり、階段を上ることも億劫になった。
それでも、神崎は立ち上がった。
次の予定が入っており、会議まで、あと数分しかない。
「大丈夫だ」
誰に言うでもなく呟き、机から離れ、数歩進んだところで、視界が揺れた。
壁が遠ざかり、足元の感覚が、一瞬だけなくなった。神崎は机に手をつこうとしたが、力が入らない。
「……何だ、これ……」
身体が傾き、床が急に近づいてくる。
神崎は倒れ、執務室に、鈍い音が響いた。異常を検知したシステムが即座に作動すると、数秒後には、警護担当と医療スタッフが駆け込んできた。




