感情
長い沈黙が流れた。
神崎はゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐く。
「……。」
静かに顔を上げる。
「……君たちの察しの通り、私は脳移植を受けた。」
誰も言葉を発しない。その一言だけで、この国が150年間信じ続けてきたものは崩れ去った。
神崎は3人の表情を見渡すと、穏やかな口調で続ける。
「…だが、間違っていたとは思っていない。」
「この国は混乱の時代にあって、政治は短い任期の中で方針を変え続け、長期的な国家戦略は実現できなかった。私にならこの国を良い方向へ導ける。そう思い、私は、葉山の提案を受けることにした。」
神崎の瞳に迷いはない。
「生き続けることで、この国を守れるのであれば、その責任を背負う覚悟はあった。それが、国民のためになると信じていた。」
部屋に静かな空気が流れる。
その言葉を聞いた天音は、静かに拳を握り締めた。
「人の命を奪ってもですか。」
神崎は視線を逸らさない。
「……犠牲が伴うことは理解している。だが、国家とは、ときに犠牲の上に成り立つものだ。」
天音は悲しそうに首を振った。
「私は、そうは思いません。誰かの命を奪ってまで、幸せになりたいなんて思いません。」
神崎は黙ったまま天音を見つめる。
天音は続けた。
「私は涼太を守りたいし、これからあなたと葉山に提供者にされる人達も守りたい。」
「今なら正孝さんの言葉の意味がよくわかります。命は、奪ってつなぐものじゃない。託して、つないでいくものなんだって。」
神崎は静かに息を吐いた。
「……そんなのは理想論だ。そんな考えで国を動かすことはできない。」
「AIによる政策分析を取り入れ、あらゆる分野を分析してきた。その結果、この国の国民は過去最高の幸福状態にあると示されている。」
それまで黙っていた涼太が一歩前へ出た。
「その幸福度は、本当に正しいんですか。」
神崎は少し眉を動かした。
「もちろんだ、経済は成長した。AIによって交通、物流、医療、行政、人々の行動までも最適化され、無駄な時間は大幅に減り、人々は、より有意義な時間を過ごせるようになったのだから。」
「これ以上、何を幸福と言う」
涼太は神崎を真っ直ぐ見つめた。
「……それは、AIが出した答えですよね。あなたは、どう思っているんですか。」
神崎は少し間をおいて答える。
「幸せだと思っているよ。」
涼太は少し考えてから、口を開いた。
「僕、田舎から出てきたんです。東京に来たばかりの頃は、本当にすごいと思いました。」
「犯罪が起きそうになれば、警備システムが知らせてくれて、どこに行くにも困らないし、何かを選ぶ時だって、一番いい答えを教えてくれる。でも、東京で暮らしているうちに、少しずつ違って見えるようになったんです。」
涼太はそこで一度、言葉を止めた。
「最初は、何もかもがスムーズで快適でした。困ったこともないし、迷う必要もない。でも、ある時ふと気づいたんです。」
「考えることが減ったなって。笑うことも、悲しむことも減ったなって。」
神崎は黙っている。
「田舎にいた頃は、もっと笑っていた気がします。悔しくて泣いたり、どうすればいいか分からなくて悩んだり。」
涼太は自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続けた。
「NCTは、身体と脳データがちゃんとつながることが大切なんですよね。人間も、何かとつながっていないといけないんじゃないでしょうか。心が動いて、それを自分で選ぶ。」
神崎の表情がわずかに揺れた。
「もしかしたら、僕だけじゃないのかもしれない。国民みんなが少しずつ、自分の感情をなくしているん
じゃないでしょうか。」
部屋に静かな沈黙が落ちた。
神崎は3人を見渡して、何かを言おうとして、やめた。そして、視線を伏せた。
「……今日は、ここまでにしよう。」
神崎は立ち上がり、端末を操作して警護官を呼んだ。
ほどなくして、扉が開き、待機していた警護官が2人、部屋へ入ってくる。
「こちらへ。」
佐伯(犬)は何も言わず、天音と涼太に視線を向けた。天音は一度だけ神崎を見て、何かを言いたそうだったが、何も言わなかった。涼太も神崎を見つめたまま、部屋を出ていく。
3人が出ていくと、扉が静かに閉まった。神崎は、しばらくその場から動かなかった。やがて椅子に腰を下ろし、目の前に浮かぶ端末を操作する。
空中の画面に映し出されたのは、若かった頃の神崎と妻、そして幼い息子の姿だった。家族3人で出かけた日の映像だった。
小さな息子が、神崎の手を握って歩いており、何かを見つけたのか、息子が嬉しそうに妻を呼ぶ。妻が笑い、神崎も笑っている。
特別な日ではない。ただ、家族が一緒に過ごしているだけの、何気ない時間だった。
神崎は黙って、その映像を見つめていた。
画面の中では、幼い息子が何度も振り返っている。そのたびに、神崎は笑顔で息子を見ていた。
やがて映像が終わる。
神崎はしばらく動かなかった。そして、誰もいない部屋で小さく呟いた。
「……俺は、間違っていたのか……」
あの頃の自分には、今の自分が失ってしまったものが確かにあった。
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