命とは
佐伯(犬)は神崎を静かに見つめた。
「神崎首相、あなたは表向き、NCTを受けたことになっています。ですが、一つ説明のつかないことがあります。」
神崎は黙って耳を傾けている。
「NCTを受けた人間は、例外なく感情が薄れていきます。これは、私が150年前から確認してきた事実です。ですが、あなたからは、その兆候を感じとれません。」
佐伯(犬)は一拍置いた。
「脳移植を受けましたね。」
神崎の視線が鋭くなる。
「……何を言っている。私が受けたのはNCTであり、脳移植など受けてはいない。」
部屋に沈黙が流れる。
やがて佐伯(犬)は、小さく頷いた。
「認められないことは分かっていました。ですが、今の反応で確信しました。」
初めて脳移植の話をされた人間の反応ではないことは明らかであった。
「あなたは真実をご存じです。そして、その真実を隠し続けている。」
佐伯(犬)は静かに続けた。
「神崎首相、あなたは、この国の国民を守る立場にあります。それにもかかわらず、提供者となる人たちの人生を奪いながら、自らの命をつなぎ続けてきた。」
「あなたが、本当に守りたかったものは何ですか。人の命を奪ってまでやりたかったことはなんですか。」
神崎は答えない。
佐伯(犬)の声だけが静かに響く。
「あなたのことを少し調べさせてもらいました。」
「奥様を早くに亡くされ、息子さん…正孝さんは国境なき医師団の医師として世界各地で人命救助に尽くし、紛争地で命を落とされた。」
「正孝さんは短くも立派な道を歩んだと、私は思います。人の命についても立派な考えをお持ちでした。」
佐伯(犬)は静かに続けた。
「正孝さんは、あるインタビューで、記者から『命とは何か』と尋ねられたことがありました。」
「正孝さんは、しばらく考えた後、こう答えています。」
『世界各地で、多くの命と向き合ってきました。戦争で傷ついた人、家族を失った人、そして、自ら命を奪ったことを悔やみ続ける兵士もいました。』
『命は、奪い合うものではありません。』
『自分の命も、自分以外の命も、同じように尊いものです。一人一人に家族があり、人生があります。何気ない日常を過ごすことが、どれだけ幸せなことなのかを知らされました。』
『与えられた時間を精一杯生き、その命を次の世代へつないでいく。そんな命が一つでも多ければ、未来はきっと今より優しい世界になると思います。』
佐伯(犬)は静かに視線を上げた。
「私は、その言葉に深く共感しました。正孝さんは、今のあなたを見て、何を思うでしょうか。」
神崎は何も答えなかった。
重い沈黙の中、天音が一歩前へ出る。
「あなたは、多くの国民を幸せにしてきたのかもしれません。便利な世の中をつくり、犯罪も減らした。でも、その幸せは、誰かの命を奪ってまで守るものなんですか。」
神崎は黙って聞いている。
「私は適合者です。」
「葉山に狙われ、それを知った父は私を守ろうとして、葉山に殺されました。」
神崎の表情が初めて曇る。
天音は続けた。
「私は、適合者になってから2年間、逃げ続けています。学校へ行くことも、友達と会うことも、未来を考えることもできませんでした。あなたたちが生き続けるために、何で身体を奪われなくちゃいけないんですか。」
神崎は言葉を失った。
佐伯(犬)は静かに神崎を見つめる。
「彼女は特別な人間ではありません。どこにでもいる、普通の人間であり、あなたが守る国民の1人です。」
「その人生を奪う権利は、誰にもありません。」




