他人
2299年。
神崎首相が、この国を導き続けて149年。歴史上、最も長く国を導いた政治家であり、多くの国民は、彼の存在を当たり前のものとして受け入れていた。
しかし――。
どれほど進んだ時代でも、どれだけ違法な技術を使っても、人間であることから逃れることはできなかった。
その日。
神崎は、葉山総合病院の特別診療区画にいた。
一般の患者が立ち入ることのできない、首相専用の医療エリア。最新鋭の検査装置が並ぶ部屋で、神崎は静かに検査を受けていた。
現在の身体は40代、高い神経受容率、優れた適合性で、これまで長い年月を問題なく維持してきた。
だからこそ、誰も疑っていなかった。今回の診断も、いつも通り終わると。
しかしー
検査結果を確認していた医師の手が止まった。
ほんの一瞬。
その変化を神崎は見逃さなかった。
「……何かあるのか。」
医師は画面を見つめたまま、慎重に答える。
「首相、念のため、追加検査を受けていただけないでしょうか。」
神崎の表情がわずかに変わる。
「理由は。」
医師は迷った。
だが、隠すことはできない。
「異常が確認されました。」
⸻
追加検査には数時間を要し、戻ってきた医師が静かに口を開いた。
「診断結果が出ました。」
神崎は静かに頷く。
「言ってくれ。」
医師は空中に画面を表示した。そこに表示された病名。
ー突発性神経変性疾患ー
「原因は、現在も完全には解明されていません。」
医師が説明を続ける。
「発症の予測は困難で、初期段階では自覚症状もほとんどありません。しかし、一度進行が始まると、現在の医療では止めることができません。」
神崎は画面を見る。
「治療は。」
「進行を遅らせることは可能です。」
医師は一度言葉を止めた。
「ですが……」
「根本的な治療法はありません。」
沈黙。
そして神崎は聞いた。
「残された時間は。」
医師は目を伏せる。
「早期に発見できたことは幸運です。しかし、この病は……発見できた段階でも、長く生きられる保証はありません。」
「治療を続けても……数年程度になる可能性があります。」
神崎は何も言わなかった。
…人間の命には終わりがある。
神崎は葉山総合病院の奥にある部屋へ向かった。そこには、一人の男が待っていた。
葉山。
かつて神崎に、脳移植という未来を示した男。
葉山は神崎を見ると、すべてを理解したように言った。
「聞きました。」
神崎は椅子に座る。
しばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「葉山、……新しい器を用意してくれ。」
葉山は驚かなかった。
むしろ、当然の答えを待っていたようだった。
「分かりました。あなたには、まだ役目がありますから。」
神崎はその言葉に返事をしなかった。
そして、静かに立ち上がった。
⸻
その夜。
自宅へ戻った神崎は、1人静かな部屋にいた。
首相としてではなく、ただ1人の人間として。
目の前には端末があり、いくつかの映像を映し出し、スクロールしたあと1つの映像を再生する。
画面に映ったのは、青々とした芝生だった。その上を、小さな男の子が笑い声を上げながら走っている。
まだ幼い息子。
後ろから、笑いながら追いかける男性。
それは、今とは顔も体も違う若い頃の神崎自身だった。
「待ちなさい。」
映像の中の自分が笑う。
少し離れた場所では、女性が2人を見つめて、優しく見守っている。
妻だった。
⸻
神崎は、その映像を無言で見続けた。
そこには首相はいなかった。国を背負う男も。
ただ、1人の父親と幸せな家族がいた。
映像が終わり、暗くなった画面に、現在の自分の顔が映る。
他人の顔⸻
神崎は小さく呟いた。
「……私は、幸せなのか。」
最後まで『器ーうつわー』を読んでいただき、ありがとうございます。
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