希望
宗一郎はゆっくりと扉の取手に触れる。鍵はかかっておらず、静かに扉は開く。
広い部屋。
高級な家具。
壁には芸術品が飾られ、部屋の中央には大きなデスクが置かれている。
研究者の部屋というより、権力者の執務室だった。
宗一郎は周囲を見渡す。
「……地下にこんな部屋があったとは。」
佐伯(犬)は何も答えなかった。
そこには、研究者としての姿ではなく、長い年月を生き続けようとした男の欲望が映し出されていた。
佐伯(犬)は、ゆっくりとデスクの後ろへ回る。
そして、壁の一部に視線を止めた。
「……」
宗一郎が近づく。
「何かありますか」
佐伯(犬)は静かに頷いた。
「金庫です」
デスクの後ろの目立たない場所に、それはあった。
佐伯(犬)は金庫を見つめる。その構造を確認した瞬間、表情がわずかに変わった。
予想通りだった。佐伯(犬)は、宗一郎に黒いキューブを金庫にかざすように言う。
短い電子音が響き、しばらくして金庫の扉が静かに開いた。
中には、4つのキューブが並べられていた。白いキューブ、赤いキューブ、緑のキューブ、青のキューブ。
佐伯(犬)は、1つずつ確認していく。
最初に白いキューブを手に取り、空中にデータを映し出した瞬間、表情が変わった。
「……」
それは、かつて葉山に渡した、脳移植に関する記録だった。自分が考えた理論、自分が積み重ねてきた研究、それが、今もここに残されていた。
佐伯(犬)は、静かに元へ戻す。
次に赤いキューブを手に取り、データを映し出す。
そこに収められていた内容を見た瞬間、目を細めた。
「これは……」
宗一郎が尋ねる。
「何ですか」
「国家規模の調査データです」
佐伯(犬)は画面に表示された情報を見る。そこには、神崎首相と葉山総合病院の繋がりの記録と共に健康診断という名目で集められた、膨大なデータ。
その中には、人間の神経受容率に関する情報が含まれていた。
「国までも……」
その時――。
カチッ。
小さな音が響いた。
宗一郎が振り返る。
開いていた扉が、ゆっくりと閉まっていく。
「……」
部屋の空気が変わった。
次の瞬間。
暗くなった室内に、1つの光が浮かび上がる。空中に映し出されたのは、葉山の姿だった。
『八代くん』
宗一郎の表情が固まる。
『君の侵入には気づいていたよ』
葉山は、静かに笑った。
宗一郎は、拳を握りしめる。
「……なら、なぜ今まで姿を見せなかった」
『君がどこまで辿り着くのか、何を探しているのか興味があったからだよ』
葉山は、まるで研究結果を観察するような口調で話す。
宗一郎は葉山を睨みつける。
「私が聞きたいのは、そんなことではない。神経受容率の高い人間を……何に利用している」
葉山の笑みが、わずかに深くなる。
『そこまで知っているのか……しかしなぜ』
「答えろ」
宗一郎の声には怒りがこもっていた。
「健康診断という名目で、多くの人間を調べ、その中から選ばれた人間たちは、何のために利用されている」
しばらく沈黙が続いた。
やがて葉山は、穏やかな声で答えた。
『命を繋ぐためだ』
宗一郎の表情が変わる。
『私は、人類に残された可能性を守っている』
『誰もが同じ価値を持つという考えは、聞こえはいい、だが現実は違う』
葉山の声には迷いがなかった。
『優れた才能を持つ者、人類の未来を変える可能性を持つ者、そういう人間の命を未来へ残す』
『それの何が悪い』
「……お前に人の人生を決める権利はない」
宗一郎が低く言う。
葉山は否定しなかった。
『選択だよ』
『医療とは、本来そういうものだ』
『限られた時間の中で、何を残すのかを決める』
宗一郎は言葉を失う。
葉山は、本当に自分が正しいと思っている。そのことが、何より恐ろしかった。
『八代くん』
『君も分かっているはずだ、この技術があれば、人類は寿命という限界を超えられる』
その言葉を聞き、佐伯(犬)は静かに葉山を見つめていた。
かつての葉山。
医師として患者と向き合い、研究者として人の未来を考えていた男。
その姿は、もうどこにもなかった。
「葉山……」
佐伯(犬)は小さく呟く。
「昔のあなたは、人の命を選ぶような人間ではなかった」
その言葉に、葉山の視線がわずかに動く。犬が言葉を発している。ロボットか?AIか?だが、それ以上に気になったことがあった。
その声、その話し方、聞き覚えがある。
『……何だ』
葉山の表情から、初めて余裕が消える。
『ただのロボットではないのか』
佐伯(犬)は、静かに葉山を見上げた。
『私を知っているのか?』
短い沈黙。
佐伯(犬)は、ゆっくりと口を開いた。
「私は――佐伯志道だ」
葉山の表情が凍りつく。
『……』
「140年以上前、あなたの暴走を止めることができなかった男だ」
その瞬間。
葉山の目が大きく見開かれた。
『……佐伯』
声が震える。
『なぜ……』
長い年月の中で、決して忘れることのなかった名前。
死んだはずの男。
目の前にいるはずのない存在。
『ありえない』
葉山は佐伯(犬)を見つめる。
『脳移植……?』
そして、すぐに否定する。
『いや……違う』
葉山の中で、別の可能性が浮かぶ。
『NCTか……』
しかし、その答えにも確信は持てなかった。
『だが……』
『君は死んだはずだ』
葉山は画面越しに睨む。
『どうやって……』
その問いに、佐伯(犬)は答えなかった。
『……ここまで知られれば』
葉山の声から、感情が消えた。
『帰すわけにはいかない』
次の瞬間。
部屋の空気が変わった。天井の通気口が開き、白い霧が、ゆっくりと流れ込んできた。
「……!」
宗一郎は瞬時に悟る。
ガスだ。
「佐伯さん!」
宗一郎は持っていた工具を握りしめ、天井のダクトへ向かう。ダクトに取り付けられているガラリを何度も叩きつける。
やがて、ガラリが外れた。
「佐伯さん、早く!」
宗一郎は佐伯(犬)を抱き抱えると、ダクトの中に押し込む。
「宗一郎さん……」
宗一郎は金庫へ手を伸ばし、赤いキューブを取り出す。
「これを」
宗一郎は、キューブを佐伯(犬)の口へ咥えさせる。
「ゴホ、ゴホ」
ガスが部屋を満たしていく。
宗一郎は、静かに笑った。
「天音をお願いします……」
「自分で選んだ…人生を精一杯生きろと……」
その言葉を最後に宗一郎は床に横たわった。
「……必ず」
佐伯(犬)は小さく呟く。
「必ず、伝えます」
宗一郎に届いたかは分からない。
そして――。
佐伯(犬)は赤いキューブを咥え、暗いダクトの奥へ進んでいった。
最後まで『器ーうつわー』を読んでいただき、ありがとうございます。
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