地下2階
宗一郎はゆっくりと鉄扉を閉めた。
カチッ。
電子ロックが再び作動する。
外の廊下から、この非常階段の存在を知る者はいない。階段には非常灯だけが淡く灯り、冷たいコンクリートの壁が地下へと続いていた。
宗一郎は小さく息を整える。
「行きます。」
佐伯(犬)は無言で頷いた。
2人は足音を殺しながら、一段ずつ階段を降りていく。聞こえるのは自分たちの呼吸と、空調設備の低いうなりだけだった。
地下2階
と表示されたプレートが視界に入る。
宗一郎は立ち止まり、扉へ耳を当てた。
物音はない。
佐伯(犬)が静かに合図を送り、宗一郎はゆっくりとドアノブを回した。
ロックは掛かっていなかった。わずかに扉を開き、廊下の様子を窺う。
白く長い廊下。
天井には間接照明が等間隔に並び、昼夜の区別がないような明るさを保っている。
宗一郎は目を見開いた。
「……。」
人がいる。
白衣姿の医師と研究着を着た研究員。
宗一郎は思わず足を止める。
「こんな時間に……。」
佐伯(犬)は小さく首を振った。
「勤務ではありません、見てください。」
宗一郎が視線を向けると、廊下の先は全面ガラス張りになっていた。
その向こうには広い食堂が広がっている。
医師や研究員と思われる者たちが、整然と席に着き、食事をしていた。
だが――。
誰一人として会話をしていない。
食器が触れ合う小さな音だけが静かに響き、十数人もの人間がいるとは思えないほど静まり返っていた。
笑い声も、雑談もなく、互いに視線を交わす者すらいない。ただ黙々と食事を口へ運び、食べ終えた者から無言で席を立っていく。
その光景の異様さに気づいた瞬間だった。奥の席に座る1人の女性へ、佐伯(犬)の視線が止まった。
美冬。
調査資料で見た彼女の姿がそこにいた。感情のない表情で、静かに食事を続けている。かつて自分に向けてくれた笑顔も、声も、温もりもない。
ただ、そこに存在しているだけだった。
佐伯(犬)の胸の奥が強く締め付けられる。
「……美冬」
声に出しそうになる。
今すぐ駆け寄りたかった。
しかし――。
ここで動けば、すべてが台無しになる。今は耐えるしかない。
目の前にいるのに、声をかけられない。
その苦しさを抱えながら、佐伯(犬)は地下3階への道へ視線を移す。
2人は物音を立てないよう食堂の前を通り過ぎると、その先には、地下へ続く階段があった。
佐伯(犬)が小さく頷く。
「ここからです。」
宗一郎はゆっくりと階段へ足を掛けようとした。
その瞬間だった。
コツ……コツ……。
階段の下から足音が響き、宗一郎の全身が強張る。
誰かが上がってくる。逃げられない。
宗一郎は思わず佐伯(犬)を抱き寄せ、壁際へ身を寄せた。
足音は徐々に近付く。
そして――。
1人の男が地下3階から姿を現した。
黒崎和馬。
宗一郎の心臓が大きく脈打つ。
見つかった。そう思ったが、黒崎は宗一郎と佐伯(犬)のすぐ横を、まるで誰も存在していないかのように通り過ぎていった。
そのまま歩き続け、ガラス張りの食堂へ入り、何事もなかったように空いている席へ腰を下ろした。
宗一郎は呆然と立ち尽くす。
佐伯(犬)は小さく囁いた。
「……行きましょう。」
宗一郎は静かに頷いた。
2人は、慎重に階段を降りると地下3階へ続く扉の前に立ち、重い扉をゆっくりと開いた。
その先に広がっていたのは、長い廊下だった。地下2階の施設とはまったく違い、人の気配がなく、静かすぎる空間だった。
白い壁に囲まれた通路は、どこまでも続いているように見えた。
宗一郎は周囲を警戒しながら歩く。
「……ここは、一体」
そう呟いたが、答えられる者はいなかった。
佐伯(犬)は何も言わず、ただ前を見つめていた。
やがて――。
廊下の先に、1つの大きなガラス張りの部屋が現れた。
その瞬間、佐伯(犬)の足が止まった。
宗一郎は不思議そうに彼を見る。
「佐伯さん?」
しかし、佐伯(犬)は答えなかった。
目の前の部屋。
そこに並ぶ設備、手術台を囲む精密機器、神経接続を行うための装置、生命維持装置そして、脳を扱うために設計された特殊な構造。
1つ1つを確認するたびに、佐伯(犬)の中で確信へ変わっていく。
これは、脳移植を行うための手術室だ。
かつて自分が理論として考えていたものであり、実現すれば、人間の存在そのものを変えてしまう技術。だが、倫理の壁によって決して越えてはいけないと考えていた領域。
それを、葉山は現実にしていた。
「……」
佐伯(犬)は言葉を失った。
自分の研究が、知らないところで利用され、しかも、人の命を救うためではなく――、別の目的のために。
佐伯(犬)は、しばらくガラス越しの手術室を見つめていた。胸の奥に、言葉にできない感情が渦巻いていた。
やがて、2人は再び歩き出す。
手術室のさらに奥、そこには、周囲とは明らかに異なる1つの扉があった。研究施設の扉とは思えないほど、重厚で閉ざされたものだった。
佐伯(犬)は、扉を見つめたまま答えた。
「ここです。」
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