変わらない過去
バッテリー量が40パーセントを超えた。
窓から差し込む朝の光は、少しずつ部屋の奥へと移っている。佐伯(犬)はその光を見つめたあと、静かに窓辺から離れた。
「これなら、しばらくは大丈夫でしょう」
宗一郎は頷き、部屋の隅に置かれていた段ボール箱を手に取った。
「では、研究室へ行きましょう」
佐伯(犬)は差し出された箱へ視線を落とした。
「お願いします。」
佐伯(犬)は静かに答えた。
葉山総合病院 地下1階研究所ーー
研究室に入ると、宗一郎は扉を静かに閉め、認証が完了すると、自動で遮音モードへ切り替わる。室内には、外部からの音も気配も届かない。
宗一郎は抱えていた段ボールを机の脇へ置き、蓋を開いた。
「ここなら、しばらく誰にも邪魔されません」
佐伯(犬)はゆっくりと顔を出し、周囲を見渡した。研究室には、複数の端末が並んでおり、140年前とは比べものにならないほど進歩した設備だった。
佐伯(犬)は机の上へ飛び乗る。
「……随分と変わりましたね」
「佐伯さんの時代とは、かなり違うでしょう」
「ええ。ですが、基本的な構造は理解できそうです。」
佐伯(犬)は端末の前に座った。
宗一郎がメイン端末を起動する。
「何から調べますか?」
佐伯(犬)は少し考えた。
「まず、葉山病院の現在を確認させてください。」
「分かりました」
宗一郎が研究者用の検索画面を開く。
佐伯(犬)は画面を見つめた。
「……私の研究者IDを入力してもらえますか。」
宗一郎の手が止まった。
「佐伯さんのIDを?」
「はい。まだ残っている可能性があります。」
「140年前に亡くなったとされている人のIDですよ。」
「だからこそです。」
佐伯(犬)は静かに答えた。
「私が死んだことになっているのなら、誰も削除する必要を感じなかったかもしれません。」
宗一郎は半信半疑のまま、佐伯のIDを入力した。
画面が一瞬暗くなる。
そして――。
《認証情報を確認しました》
宗一郎の目が見開かれた。
「……残っている。」
佐伯(犬)は画面を見つめた。
「やはり。」
さらに、研究責任者として登録されていた権限が表示される。
佐伯志道――研究責任者権限
140年という時間を越えて、その名前だけが消えずに残っていた。
佐伯(犬)はしばらく何も言わなかった。
やがて、
「では……始めましょう」
静かな声だった。
佐伯(犬)の調査が始まった。
宗一郎が机の上へ手をかざすと、淡い青白い光が空中へ浮かび上がった。
無数のウィンドウが宙に展開される。
研究データ、論文、施設情報、すべてが空中ディスプレイとして表示されていた。
佐伯(犬)はその光景を静かに見つめる。
「……なるほど。」
「操作体系は変わっていても、根本は同じですね。」
宗一郎は少し笑った。
「140年前の研究者とは思えませんね。」
「研究者は、新しい技術に慣れるのも仕事です。」
佐伯(犬)はそう答えると、空中ディスプレイへ視線を向けた。
「まず、葉山総合病院の研究者名簿を表示してください。」
宗一郎は操作を始める。
数秒後。
病院組織図が空中へ広がった。
院長、主任医師、研究責任者、研究員。
次々と名前が並ぶ中、佐伯(犬)は迷わず一人の名前を見つけ、宗一郎に表示してもらう。
葉山清人。
表示された写真を見た瞬間、佐伯(犬)の動きが止まる。
「……。」
そこに映っていたのは、当然ながら140年前の葉山ではない。
若い別人の顔。
しかし、その眼差しだけは、佐伯(犬)が知る葉山そのものだった。そして、ゆっくりと目を閉じる。
「また……身体を変えたのか。」
宗一郎は画面を見つめる。
「次は、黒崎脳神経外科部長を。」
宗一郎は画面から見つけ表示する。
黒崎和馬。
表示された写真は、見覚えのない顔であった。
佐伯(犬)は小さく息を吐く。
「やはり黒崎も……。」
さらに、研究チームの名簿を開いてもらい、次々と知っている名前が表示される。
共にNCTを研究していた仲間たち。
一人、また一人、現役研究者として登録されていた。佐伯(犬)は、その中の一人で視線を止める。
「……美冬。」
思わず、その名が漏れる。
生きている。
胸の奥から込み上げる安堵、もう二度と会えないと思っていた人が、この世界に存在している。その事実だけで、心が震えた。
だが次の瞬間。その安堵は戸惑いへ変わる。
「どうして……、君まで。」
画面には、美冬の新しい顔が映っていたが、葉山や黒崎と同じ別人の顔。
佐伯(犬)は静かに目を閉じた。
「皆……脳移植なのか、それとも……NCTなのか。」
答えはまだ分からないが、怒りも、悲しみも込み上げてくる。
佐伯(犬)は、小さく笑った。
「私は、まだ感情を失っていないのか。」
佐伯(犬)は画面を見つめたまま呟いた。
「もしかすると……、現在のNCTでは、感情の維持にも成功しているのかもしれないな。」
その言葉には、小さな希望が込められていた。だが、その希望が打ち砕かれるまで、それほど時間はかからなかった。




