起動
天音はまだ眠っていた。部屋には、小鳥のさえずりだけが静かに響いている。
机の上では、犬型ロボットの瞳は閉じたまま動かない。しかし、その内部では140年以上止まっていたシステムが、ゆっくりと目を覚まし始めていた。
《充電率 1%》
《システム点検開始》
《メモリ保全状態……正常》
《神経データ保全状態……正常》
《充電率 5%》
わずかに胸部のランプが淡く点滅する。
天音は寝返りを打っただけで、その変化には気付かない。
朝日がゆっくりと部屋を満たしていく。
《充電率 12%》
《最低起動電力を確保》
《生活支援システムを起動します》
犬型ロボットの閉じられていた瞳に、かすかな青い光が灯った。
ゆっくりと首が動く。
140年以上、一度も動くことのなかった小さな身体が、静かに息を吹き返した。
周囲を見回す。
知らない部屋。
知らない景色。
そして、ベッドで眠る一人の女性。
犬型ロボットは、その姿をしばらく見つめた。小さく息を吐くように、静かな声が漏れる。
「……ここは。」
140年という時間を越えた、最初の言葉だった。佐伯(犬)はゆっくりと身体を起こした。
関節部から小さな作動音が響く。
長い眠りから目覚めたとは思えないほど、動きは滑らかだった。窓の外に広がる街並みも、記憶とはまるで違っていた。
佐伯(犬)は静かに目を閉じる。
「私は……。」
次の瞬間。
記憶が一気によみがえる。
葉山。
黒崎。
研究室。
首筋へ走ったわずかな刺激。
薄れていく意識。
そして――。
『NCTシステムを起動します。』
ゆっくりと薄れていく自分の意識。
そして――。
目を覚ました時、自分は犬型ロボットの中にいた。
NCTは成功していた。しかし、残された電力はわずかだった。誰にも見つからないよう研究室の倉庫へ身を隠したところまでは覚えている。
その後の記憶はない。
志道は自分の前足を見つめた。
茶色い毛並み。
小さな肉球。
苦笑が漏れる。
「……成功したのか。」
コンコン、と軽く扉が叩かれた。
「天音、起きてるか。」
落ち着いた声が部屋に響く。
宗一郎は部屋へ入ると、窓際に立つ犬型ロボットを見て足を止めた。
「……。」
宗一郎が息をのむ。
その瞬間、佐伯(犬)はゆっくりと振り返った。
「おはようございます。」
宗一郎は目を見開いたまま、その場に立ち尽くした。
「……動いた。」
思わず漏れた声に、ベッドの上の天音も目を覚ます。
「ん……お父さん?」
眠そうに身体を起こした天音は、窓際に立つ犬型ロボットを見るなり、一気に目を覚ました。
「えっ!」
「かわいい……!」
佐伯(犬)は二人を静かに見つめ、落ち着いた口調で言った。
「突然お話しして申し訳ありません。まず、一つ確認させてください。」
「今は西暦何年ですか。」
思いがけない質問だった。
「2298年です。」
その瞬間、佐伯(犬)の動きが止まる。静かな沈黙が部屋を包んだ。
「……2298年。」
小さく繰り返したその声には、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
「そんなに……。140年以上、眠っていたのか。」
佐伯(犬)は静かに息を吐いた。
宗一郎は佐伯(犬)を見つめる。
「あなたは……一体、何者なんですか。」
佐伯(犬)は宗一郎へ向き直り、静かに頭を下げた。
「申し遅れました。私は、佐伯志道という者です。140年前まで、研究員をしていました。」
宗一郎は言葉を失った。
「そんな……。」
思わず呟く。
「佐伯志道さん……。」
「私は葉山病院の地下研究施設で研究をしています。あなたのお名前も、当時の研究内容も資料で何度も拝見しました。」
「ですが……。」
宗一郎はゆっくりと首を振る。
「あなたは、140年以上前に亡くなっているはずです。」
佐伯(犬)は静かに頷いた。
「NCTという技術をご存じですね。」
「もちろんです、現在の医療を支える重要な技術です。」
宗一郎は即座に答えた。
佐伯(犬)は静かに続ける。
「私は――。」
一度言葉を切る。
「死の直前、自らを、この犬型ロボットへNCTを行いました。」
宗一郎の表情が固まる。
「人間から……ロボットへ?」
「はい。」
「この犬型ロボットは、私が研究の合間に製作していた試作機で、生活支援用として開発していましたが、細部にこだわる余り、NCTにも対応できる設計にしていました。」
「もっとも、自分で使う日が来るとは思ってもいませんでしたが。」
宗一郎は犬型ロボットを見つめる。目の前にいるのは、AIではなく、140年前に生きていた、あの研究者。
その事実を、すぐには受け入れられなかった。
宗一郎は息をのんだ。
「そんなことが……。」
NCTによって人間の意識を別の身体へ移送する技術は、現代では珍しいものではない。しかし、その移送先が人間ではなく、機械など聞いたこともなかった。
宗一郎はゆっくり首を振る。
「今の科学技術でも、そのような事例は存在しません。論文にも、研究資料にも、一切残っていません。」
「……証明できますか。」
佐伯(犬)は穏やかに頷く。
「証明できるかもしれません。ですが、その前に確認したいことがあります。140年の間、この世界がどうなっているのかを。葉山病院が、今どうなっているのか。」
宗一郎はしばらく黙り込んだ。
そして静かに口を開く。
「……わかりました。研究室へ行きましょう。」
佐伯(犬)は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「もう一つお願いがあります。私は、まだ誰にも存在を知られるわけにはいきません。」
宗一郎は真剣な表情で頷いた。
「分かりました。理由を聞いても?」
佐伯(犬)は少しだけ視線を落とした。
「……今は、お話しできません。私が生きていることは、ある人物にとって非常に都合が悪いのです。もし知られれば、私だけでは済みません。」
宗一郎は眉をひそめる。
「私たちまで危険になる、と。」
「はい。」
佐伯(犬)は静かに答えた。
「だから、本来であれば、あなた方を巻き込むつもりはありませんでした。ですが、これを調べるには、私一人では限界があります。勝手なお願いであることは承知しています。必要な情報だけ確認できれば、私はすぐに姿を消します。」
宗一郎はしばらく考え込んだ。
そして、小さく笑う。
「研究者というのは困ったものですね。」
「『危険だからやめろ』と言われるほど、確かめたくなる。」
佐伯(犬)は苦笑した。
「そのお気持ちは、よく分かります。」
宗一郎は天音へ視線を向けた。
「天音、今日見たことは、誰にも話さないでくれ。」
天音は真剣な父の表情を見て、小さく頷く。
「……うん。誰にも言わない。」
「ありがとう。」
佐伯(犬)は日光を浴びながら
「移動する前に、もう少しだけ、ここで充電をさせてもらえませんか。」
宗一郎は首をかしげる。
「充電?」
「はい。」
佐伯(犬)は窓の外を見つめた。
「この試作機は、太陽光から電力を得られるよう設計しています。現在の残量では長時間の活動は難しいので。」
宗一郎は驚いたように目を見開く。
「そんな機能まで搭載していたんですか。」
佐伯(犬)は少し照れくさそうに笑う。
「研究者というものは、つい色々と詰め込みたくなるものです。」
宗一郎も思わず笑みを浮かべた。
「分かりました。それなら出発まで、窓際で充電していてください。」
朝日が茶色い毛並みに降り注ぐ。すると、小さく電子音が鳴った。
《ソーラー充電開始》




