託されたもの
脳移植—
その言葉が、静かな研究室に落ち、志道はしばらく動けなかった。
そんなことが許されるはずがない。
しかし――。
目の前にある事実は、その可能性を否定できなかった。提供者は記録上存在しているが、実際にその患者を見た者はいない。
なぜ葉山は、あの時、研究チームを作ったのか。当時はNCTの精度向上に必要な研究だと考えていた。
だが――。
今なら分かる。それはNCTのためではなく、脳移植のためだった。
葉山は最初から、その未来を見ていた。
志道はゆっくりと立ち上がる。
すべてが一本の線でつながった。
志道は院長室へ向かった。確かめなければならない。長年、信頼していた男の口から。
扉を開ける。
葉山は、まるで待っていたかのように振り返った。
「そろそろ来る頃だと思っていたよ、志道君。」
「……理事長。」
志道は葉山を見つめる。
「あなたは、NCTを受けていないですね。」
短い沈黙。
葉山は否定しなかった。
「さすがだな。」
静かな声だった。
「君は気付くと思っていたよ。」
志道は拳を握り締めた。
「……なぜです。」
声には、怒りよりも悲しみが滲んでいた。
「なぜ、私たちに何も言わなかったんですか。」
葉山は静かに志道を見つめる。
「言えば、君は止めただろう。」
「……当然です。」
志道は迷うことなく答えた。
「これは、私たちが目指していた医療とは違う。」
葉山は何も言わない。
志道は続ける。
「私たちの研究は、人を救うためのものだったはずです。」
「なのに……。」
志道は言葉を詰まらせた。
「あなたがしたことは、人殺しです。」
葉山の表情は変わらない。
「提供された身体の持ち主にも、人生があったはずです。大切な人がいたかもしれない。まだまだやりたいことがあったかもしれない。」
志道の声が少し強くなる。
「それを、あなたは、ただの器として扱った。」
部屋に静寂が落ちる。
葉山はしばらく黙っていた。そして、静かに口を開く。
「すべての人間が同じ価値を持っているわけではない。」
「医療を発展させる者。」
「新しい技術を生み出す者。」
「社会を支える者。」
「長い年月をかけて、多くのものを築いてきた人間がいる。その人間が、この世界から失われることは、本当に社会にとって正しいことなのか。」
志道は黙って葉山を見る。
「私は、ただ自分の命を延ばしたかったわけではない。価値ある知識や経験を持つ人間が、より長く生き続けることは、人類全体の利益になる。」
葉山は自分の手を見る。
「若い身体を得たことで、私は再び世界に貢献できる。また多くの未来を作ることができる。」
志道は静かに首を振った。
「だからといって誰かを犠牲にしていいと?」
葉山は答えない。
その沈黙が、答えだった。
長年、共に未来を語った医師であり、研究者。
尊敬していた男。
その男が、自分とはまったく違う道を選んでいたことが、何より苦しかった。
志道は静かに立ち上がった。
「……もう、分かりました。」
葉山は何も言わない。
「私は、この事実を公表します。」
葉山は、志道から視線を外さない。
「好きにしたらいい。」
志道は一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべると、院長室を出た。
研究所へ戻った志道は、周囲を確認しながら中へ入り、自分の端末へ向かった。
端末を起動する。
認証。
データ展開。
その瞬間だった。
首筋に、わずかな刺激を感じた。
「……?」
痛みというほどではない。
無針インジェクターによる、ほんの一瞬の接触。
志道はゆっくり振り返った。
そこには、黒崎が立っていた。
「……黒崎先生。」
黒崎は何も言わなかった。
ただ、悲しそうな表情で志道を見る。
「申し訳ありません。」
志道は理解した。
「……やはり、あなたもですか。」
黒崎は答えなかった。
志道の声には、怒りよりも失望があった。
「医師であるあなたが。人を救うためではなく、なんてことを……。」
黒崎は目を伏せる。
「理事長は、間違っているのかもしれません。ですが……。」
黒崎は静かに続けた。
「もう、止められないところまで来ています。」
志道は壁に手をついた。身体から力が抜け、視界がぼやける。
「黒崎先生……。これは……未来のためではない。」
黒崎は何も答えなかった。
やがて志道の意識は薄れていき、床へ倒れる。
黒崎は小さく呟いた。
「……すみません。」
そう言うと黒崎は研究所を後にした。
そして静寂だけが残る。
数分後ー
意識がゆっくりと戻ってくる。視界はぼやけ、身体は鉛のように重かった。
「……っ。」
首筋には、わずかな痛み。黒崎が何をしたのかは理解していた。残された時間は、もう長くない。
志道は壁に手をつきながら立ち上がると、研究室の奥へゆっくりと歩いた。そこには、一体の犬型ロボットが静かに佇んでいた。
本格的な医療機器とは程遠い、生活支援用の試作機。研究の合間に、純粋な遊び心から作り始めた存在だった。
人と会話をする。
感情を読み取る。
そっと寄り添う。
それが、このロボットの役目だった。
だが、志道は研究者だった。
作る以上、一切妥協しない。
生活支援用という外見とは裏腹に、内部には当時最高性能の演算装置と神経接続インターフェースを搭載し、NCT研究で培った意識保存・解析システムも試験的に組み込んでいた。
本来、人間へ使うためではない。あくまでも研究用の試験機。
そのはずだった。
志道はロボットの前に膝をつき、小さく笑った。
「……まさか。」
「君に、僕の意思を託す日が来るとは思わなかったよ。」
震える手でメンテナンスパネルを開く。
ロボットの瞳が淡く点灯した。
「志道研究員を認証しました。生活支援モードを終了します。研究モードへ移行します。」
志道は端末へ手を伸ばす。
認証が完了すると端末を操作する。研究室全体の照明がわずかに変化した。
AIが静かに告げる。
「NCT実験プロトコルを検出。」
「本機は人体への意識移送を目的とした設計ではありません。実行した場合、安全性は保証されません。」
志道は穏やかに微笑んだ。
「十分だ。未来へ繋ぐには、それで十分だ。」
AIは数秒間沈黙した後、応答する。
「研究責任者権限を確認。未承認プロトコルを解除します。」
「NCTシステムを起動します。」
静かな機械音が研究室に響き始めた。
志道は犬型ロボットを見つめながら、小さく呟く。
「頼んだよ。」




