キューブ
翌日。
志道は研究資料の保管庫を開いた。
幾重もの認証を解除すると、脳移植理論の全データが記録された量子ストレージキューブを取り出す。このキューブには、これまで積み重ねてきたすべてが記録されている。
神経再接続技術。
神経適合性理論。
AIによるシミュレーション。そして、脳移植が理論上成立する条件。
志道はキューブを見つめ、小さく息を吐いた。
「この中にNCTを完成させる答えが眠っているかもしれない。」
そう呟くと、院長室へ向かった。葉山は机の前で静かに待っていた。
「持ってきてくれたか。」
「はい。」
志道はキューブを差し出す。
葉山はそれを丁寧に受け取った。まるで貴重な医学書を扱うように、ゆっくりとキューブを撫でる。
「ありがとう、責任を持って保管しよう。安心してくれ。」
志道は安堵したように微笑んだ。
「お願いします。」
葉山はキューブを金庫へしまう。
「さて、NCTの改良は、また1から考え直さなければならないな。」
「はい、時間はかかりますが、必ず原因を突き止めます。」
「期待しているよ。」
葉山は穏やかに微笑んだ。
志道は深く一礼すると、院長室を後にした。
扉が閉まり、部屋に静寂が戻る。葉山は数秒間、閉じられた扉を見つめていた。やがて、ゆっくりと金庫を開ける。
キューブを取り出し、データを開くと、空中ディスプレイに、膨大な研究データが展開される。
一つ一つの項目を確認するたび、葉山の表情は変化していった。これは現在の医学とAI技術を組み合わせれば、理論上は実現可能な領域にまで到達している。
問題は技術ではなく、倫理だった。
葉山は画面に映る数値を見つめる。
現在のNCTは、世界から称賛されている。自らも開発に関わり、臨床試験といえど多くの命を救ってきた技術。
いつか自分自身が老いを迎えた時、その恩恵を受けるつもりでもいた。
しかし――。
…感情が薄れていく先に本当に自己意識は存在しているのか。それは人間と呼べるのか。
そう思った。
そして今。
目の前にある脳移植の理論。
そこには、NCTが越えられなかった完全な自己意識の継続が記されていた。もし、この技術によって完全な自己意識の維持が可能になるなら。
もし、感情を失うことなく人生を続けられるなら。
それを止めることこそ、本当に正しいことなのか。
葉山はそう考え始めていた。
「医学は、常に倫理との境界線で進歩してきた。」
臓器移植。
遺伝子治療。
人工臓器。
かつて多くの人間が不可能だと言ったものが、今では多くの命を救っている。
葉山は自分に言い聞かせる。
これは禁断の研究ではない。
未来の患者を救うための研究だ。
ただ、今の社会が受け入れる準備ができていないだけだ。
しかし、葉山の目的は、そこだけではなかった。彼は自分自身の老いを感じていた。医師として、研究者として、まだ成し遂げたいことがある。
NCTによって得た地位も名誉も、決して失いたくなかった。
葉山は端末を操作する。
葉山病院に所属する医師、研究者の一覧が表示される。必要な能力を持つ者を選別していく。
脳神経外科。
臨床工学技士。
AI解析、AIシステム。
NCT解析。
求めるものは、忠誠心でも人間性でもない。必要なのは、技術と知識。
脳移植を成功させるための能力だけだった。
「最高のチームを作り、まずは成功例を作る。」
「その後で……。」
葉山は一瞬だけ、自分の手を見る。
その計画を知る者は、まだ誰もいなかった。




