倫理
理論は、研究資料としてすでに完成している。
だが、人命を犠牲にする危険な研究であることから、自ら封印し、誰にも話していなかった。
しかし――。
葉山は研究者であり、医師でもある。人の命を救うことを誰よりも大切にしている人物だ。もし、この理論から倫理に反しない新たな方法が見つかるのなら。
NCTを本当の意味で完成させることができるのなら。
そう思った志道は、静かに口を開いた。
「現在のNCTは、記憶と自己意識の移送には成功しおり、本人は自分を自分だと認識し、家族も本人として受け入れています。ですが、時間の経過とともに、例外なく感情だけが薄れていく。」
葉山は黙って耳を傾けている。
「私は、その原因は脳そのものを移送していないことにあると考えています。」
「自己意識は移送できても、人間らしさを生み出している何かが、元の脳に残ってしまっているのではないか。それが神経回路なのか、生体反応なのか、それとも私たちがまだ理解できていない仕組みなのかは分かりません。ですが、それを完全に維持する方法は、理論上ただ1つです。」
部屋が静まり返る。
葉山は静かに尋ねた。
「その方法とは。」
志道は理事長の目を真っ直ぐ見つめた。
「脳そのものを移植することです。」
葉山の表情は変わらない。
だが、その瞳だけがわずかに鋭くなった。
「脳移植……。」
「はい。」
「脳を丸ごと移植すれば、記憶だけではありません。自己意識も、感情も、人間らしさも、そのまま維持できる可能性が極めて高いと考えています。」
葉山は静かに頷いた。
「しかし、それが可能なのか。」
「現在の医療技術なら可能です。」
志道は迷いなく答えた。
「神経再接続技術は、この20年で飛躍的に進歩しました。AIによる神経回路の解析と超微細手術によって、脳と脊髄、全身の神経網を理論上ほぼ完全に再接続できます。」
「AIシミュレーションでも、移植後に自己意識が維持されるという結果が出ています。」
葉山は興味深そうに身を乗り出した。
「すると、問題は神経の接続だけではない。」
「はい。」
志道は頷く。
「内臓移植に適合性があるように、脳移植にも身体との適合性があります。」
「神経回路をどれだけ正確に接続できても、脳と身体の適合性が低ければ、正常な神経伝達は維持できません。」
「私はこれを『神経適合性』と呼んでいます。」
「神経適合性が高いほど、自己意識も感情も元の人間に近い状態で維持できると考えています。」
葉山は静かに呟いた。
「神経適合性か…。」
志道は続ける。
「理論上、十分な適合性を持つ身体があれば、脳移植は現在考えられる最も完全な自己意識移送になります。」
「ですが。」
その声が少しだけ重くなる。
「その身体は、健康でなければなりません。」
葉山は静かに尋ねた。
「脳死患者の身体では駄目なのか。」
「私も最初に考えました。」
志道は苦笑するように首を振った。
「ですが、NCTと脳移植では根本的に仕組みが違います。」
「NCTは、その身体にもともと存在する脳をAI医療で修復し、その修復した脳へ自己意識を移送する技術です。」
「つまり、身体本来の神経ネットワークをそのまま利用しています。」
「だから、脳死患者の身体でも成立します。」
葉山は静かに頷いた。
志道は続ける。
「一方、脳移植は別人の脳を別人の身体へ移植します。」
「脳から脊髄、そして全身へ伸びる神経を一から接続し直さなければなりません。そのため、身体そのものが健全であり、高い神経適合性を持っていることが絶対条件になります。」
「脳死患者の身体では、その前提となる神経ネットワークがすでに広範囲に損傷している可能性が高く、現在の神経修復技術では完全に再建することはできません。」
「AIによる長期シミュレーションでも、生存率、神経機能維持率ともに極めて低い結果でした。」
葉山は腕を組み、静かに目を閉じる。
「なるほど。」
「つまり、健康な身体が必要になるわけだ。」
「はい。」
志道はゆっくりと答えた。
「ですが、その健康な身体には、その人自身の脳があります。新しい脳を移植するためには、その脳を摘出しなければなりません。」
「その瞬間、その人の自己意識は失われます。」
「1人を救うために、もう1人を犠牲にする。だから私は、この理論を封印しました。」
葉山は静かに目を閉じた。
しばらく考え込むように沈黙したあと、ゆっくりと口を開く。
「……君らしい結論だ。私も、一人の医師として、その考えには賛成だ。」
志道は少しだけ肩の力を抜いた。やはり理事長なら理解してくれる。そう思った。
葉山は立ち上がると、窓の外へ視線を向けた。
「どれほど医学が進歩しても、人の命を天秤にかける医療だけは認められない。」
「はい。」
志道は力強く頷く。
葉山は振り返り、穏やかに微笑んだ。
「その研究資料は、どこに保管している。」
「研究所の保管庫です。私以外は閲覧できないよう、最高レベルの認証を掛けています。」
葉山は安心したように頷いた。
「それでいい。だが、この研究は非常に危険だ。もし誰かが興味本位で手を出せば、取り返しのつかないことになる。」
志道の表情も引き締まる。
「私も同じ考えです。」
葉山は机へ戻ると、静かに言った。
「研究所の保管だけでは不安が残る。理事長である私の管理下で、この研究資料を保管しておこう。」
「もちろん、封印したままだ。」
志道は迷わなかった。目の前にいるのは、自分が最も尊敬する医師であり、研究者である葉山清人。
この人なら、倫理を踏み外すことは決してない。そう信じていた。
「分かりました。後ほど研究資料をお持ちします。」
葉山は満足そうに微笑む。
「ありがとう。君の研究は、必ず未来の医療を変える。」
その穏やかな笑顔の裏で、葉山が何を考えていたのか。
この時の志道は、知る由もなかった。




