自己
研究室に響くのは、空調の静かな駆動音だけだった。美冬は解析データを閉じることなく、静かに尋ねる。
「……理事長へ報告しますか。」
志道はモニターを見つめたまま、小さく頷いた。
「ああ。これは私たちだけで判断していい問題じゃない。まずは葉山理事長に報告しよう。」
美冬は少しだけ表情を曇らせる。
「理事長は……受け入れてくださるでしょうか。」
志道は穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だ。葉山理事長は、研究者である前に医師だ。人を救うための研究だということを、誰より理解している。」
「この結果を見れば、きっと私と同じ結論に辿り着き、臨床試験は一度止めるべきだと判断されるはずだ。」
その言葉を聞き、美冬も安心したように頷く。
「そうですね。」
「理事長なら、きっと。」
志道は解析データを携帯端末へ保存すると、静かに立ち上がった。
「私が話してくる。」
「美冬はAIで追加解析を続けてくれ。」
「分かりました。」
美冬は軽く会釈する。
「よろしくお願いします。」
志道は白衣を脱ぎ、ジャケットを羽織った。
研究室を出ると、地下研究所の長い廊下を歩く。認証ゲートを抜け、専用エレベーターに乗り込む。エレベーターは静かに下降を始めた。
地下3階ー
そこは驚くほど静かだった。廊下の奥には、「理事長室」と刻まれたプレート。
志道は軽く身なりを整え、ゆっくりとその扉をノックした。
「入りたまえ。」
穏やかな声が返ってきた。
志道は扉を開け、一礼する。
「失礼します。」
理事長室は、地下の一室とは思えないほど広く、落ち着いた間接照明が室内を柔らかく照らしている。
葉山清人はデスクから立ち上がると、柔らかな笑みを浮かべた。
「忙しいところ、すいません。」
「いやいや。」
葉山は応接スペースのソファへ視線を向ける。
「掛けてくれ。」
「コーヒーでいいかな。」
「ありがとうございます。」
香り高いコーヒーが運ばれる。
葉山は向かいに腰を下ろした。
「さて。何だったかな。」
志道は携帯端末を机の上へ置き、空中ディスプレイを展開する。
「本日、30名の長期観察データの解析が完了しました。その結果をご報告します。」
葉山は穏やかな表情のまま頷いた。
「聞かせてくれ。」
志道は解析結果を映し出す。30本のグラフが空中に並ぶ。
「臨床試験そのものは成功しています。」
「記憶保持。」
「認知機能。」
「運動機能。」
「自己認識。」
「いずれも問題ありません、ですが。」
志道はグラフを拡大した。
「時間の経過とともに、全被験者で情動ネットワークの活動が低下しています。」
葉山は黙って画面を見つめていた。
志道は続ける。
「低下が始まる時期には個人差があり、最も早い被験者で半年。最も遅い被験者でも3年以内。」
「例外はありません。」
「喜び、悲しみ、怒り、恐怖。」
「こうした感情に関わる脳活動が、緩やかに低下し続けています。」
葉山は腕を組み、静かに尋ねた。
「本人の自己意識はどうだ。」
「本人は、自分を自分だと認識しています。」
「家族も本人だと受け入れており、日常生活にも支障はありません。ですが、人間らしい感情だけが少しずつ失われていきます。」
志道は真っ直ぐ葉山を見た。
「私は、このまま臨床試験を続けるべきではないと考えています。原因を究明し、改善できるまで、一度中断すべきです。」
葉山はしばらく何も言わなかった。
静かな部屋に、コーヒーカップを置く小さな音だけが響いた。葉山はコーヒーを一口飲むと、静かに口を開いた。
「……佐伯君。」
「この結果は、君と美冬君だけでまとめたものか。」
「はい。」
「30名すべての長期観察データをAIで再解析し、私たちが確認しました。解析条件を変えても、結果は同じでした。」
葉山はゆっくりと頷く。
「なるほど。」
「確かに興味深い結果だ。」
そう言うと、葉山は再びディスプレイへ目を向けた。
「だが。」
その一言に、志道は顔を上げる。
「私は、現時点で臨床試験を中止する必要はないと考えている。」
「……なぜですか。」
志道は思わず聞き返した。
葉山は落ち着いた口調のまま答える。
「まず第一に、被験者本人は自分を自分だと認識している。」
「記憶も保たれている。社会生活にも支障はない。そして家族も、本人として受け入れている。」
「これが現実だ。」
志道は静かに首を振った。
「ですが、人間らしさが失われています。感情は、人間にとって大切なものです。」
葉山は穏やかな表情を崩さない。
「その”失われている”という結論は、医学的に証明できるのかね。」
「脳活動の低下は確認されています。」
「しかし、それだけでは本人の感情そのものが失われたとは断定できない。自己意識は本人にしか分からない。それは君もよく分かっているはずだ。」
志道は言葉を失った。
葉山は続ける。
「NCTは、これまで救うことのできなかった多くの命に、新たな可能性を与えた。世界中の医療機関が導入を始めている。今、この段階で臨床試験を止めれば、社会に与える影響は計り知れない。」
「だから私は。」
「臨床試験は継続すべきだと判断する。」
その言葉に、志道はゆっくりと息を吐いた。
「私は賛成できません。」
「感情が薄れていく技術は、完成とは呼べません。原因を突き止めるまで、実用化を急ぐべきではありません。」
葉山は静かに志道を見つめた。
その穏やかな笑みは変わらない。しかし、その瞳だけは、どこか冷たく志道を見据えていた。
葉山は沈黙したまま、解析データをもう一度見つめた。やがて、小さく息を吐く。
「佐伯君。」
「君の言いたいことは、よく分かった。この欠陥を解決できなければ、NCTは完成ではない。私も、その考えに異論はない。」
志道は少しだけ表情を緩めた。
理事長なら理解してくれる。そう信じていた。
葉山はコーヒーカップを机へ戻すと、静かに尋ねた。
「では。君なら、この問題をどう解決する。」
志道は視線を落とした。
しばらく考え込んだあと、ゆっくりと口を開く。
「……理論だけなら、1つあります。」
葉山の眉がわずかに動いた。
「聞かせてくれ。」




