2026年3月10日火曜日
昨日は特に特徴的な出来事はなかった。ただ、一昨日友達と遊んだ際に感じた、みんなは大人になっているのに、自分だけ変われないままであることについて考えていた。それで少しだけ思ったことがある。以下は、何も根拠のない妄想に過ぎないことに注意して読んでもらいたい。友達の話を聞いていて思ったのは、私よりも偏差値が上の大学に入った友達の話を聞くと、遊び方であったり、人間関係がより成熟したものであるような感じがしたことだ。一方、私よりも偏差値が下の大学に進んだ友達の話では、なんとなく若さが目立つような行動をする人が多かった。このことから、人間的に大人になっていく意味での成長は、そこまでの人生での努力量と関連があるのではないかと思った。進んだ大学のレベルが努力量と直結しているわけではないことは理解しているが、「苦労の経験値」という意味で「努力量」という言葉を使わせてもらいたい。
私の理論が正しければ、私よりも偏差値が下の大学に行った友人は私よりも幼いのではないかという指摘があるかもしれないが、私の友達は志望校をかなり下げてそこに行くことになったため、彼らとはある程度線を引いて、自分で簿記の資格を取るなど学習を重ねている。その点で、彼は努力量で言うと私よりも上の人間であろう。
そして、私の過程が正しいとしたときに、大学とは残酷なものであることを感じる。大学全体として振れ幅はあるとは思うが、だいたいの努力量のレベル感は大学によって決まってしまっていて、そこからできる人間関係と、それによりもたらされる成長はある程度その「質」が決まってしまう。決して、私の友人が幼いということではないが、話の内容が大きく異なることを感じてしまったのも事実である。私の友人の一人に、「くだらないことで笑えるのが一番幸せだ」と言って憚らない人がいるのだが、高校の友達と話してみると、「何かまだ見えていない世界があるから、小さなことで『楽しい』という感情が満たされてしまっているのではないか」という疑念が湧いてしまったことは否定できない。そろそろ、研究という意味でも就職という意味でも、自分の軸に従って、「プロフェッショナル」にならなくてはならないのに、いまだに私は何をすれば幸せなのかもわからない。




