2 あなたを殺した私
【リヴィア視点】
7月14日は、私の誕生日。
なのにいつも、誰かの命日みたいな空気が流れる。
理由は簡単。
孤児院の裏庭には、「リヴィア」と刻まれた墓がある。
私の名前と、まったく同じ名前の墓。
この人が死んだのが7月14日だった。
この墓の世話をするのは、今年から私の役目になった。
毎日、花を供え、掃除をして、祈る。
名前が同じだからって、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、なんだか、少しだけ──懐かしかった。
7月14日。いつもと同じように墓の掃除をしていたときだった。
見たことのない馬車が孤児院の前に止まり、中からひとりの男が降りてきた。
黒い上着をまとった、無口そうな人。
手には花束を抱えていた。
「君は、誰だ?」
そう問われて、私は素直に名乗った。
「リヴィア。あなたは?」
男は目を見開いたあと、しばらく何も言わなかった。
そして、ぽつりとこう言った。
「……私は、セイランという者だ」
毎年7月14日になると、セイランは墓を訪れた。
花を供えたあと、私にも「誕生日だから」と小さなプレゼントをくれた。
最初は距離のあった会話も、少しずつ増えていった。
「本を贈ろう」
「文字、読めないよ」
「……明日から、読み書きを教える先生を寄こす」
その言葉通り、翌日から本当に先生が来た。
あの人の言葉には、いつも重みがあった。
口数は少ないのに、言葉のひとつひとつが、心に残った。
十四歳の誕生日、私はこう伝えた。
「私、今日で孤児院を出なきゃいけないの。住む場所も、働く場所も、まだ決まってないけど。だから、セイランに会えるのは今日限りね」
セイランは黙ってうなずき、それから小さな紙に何か書きつけて、私に差し出した。
「城下に家がある。よければ、そこで暮らしてみないか」
「私が住んでいいの?」
「……君なら歓迎する」
「じゃあ、あなたは? そこに来てくれるの?」
「君が望むなら」
「じゃあ……歓迎するわ、セイラン」
ふたりは、静かに笑った。
その笑顔の裏で、私の胸の奥がひどく痛んだ。
まるで長い長い夢の続きを、ようやく歩き出したような、そんな気がしたから。
◇
セイランが用意してくれた家は、小さくて、静かだった。
けれど、ひと目で気に入った。
掃除が行き届いていて、家具も古いのに丁寧に手入れされていた。
「ここ、本当に私が住んでいいの?」
「ここは、昔……大切な人と暮らした家なんだ。
今は、君に託したいと思っている」
その言葉の意味は、当時の私には理解できなかった。
でも──少しだけ、胸がざわついた。
数日後、セイランは猫を連れてきた。
「この子は……?」
「名前はミラ。以前ここで暮らしていた猫だ。君と一緒にいてくれたら、安心できると思ってな」
ミラは最初、警戒したように部屋の隅をうろうろしていた。
けれど不思議なことに、私が手を伸ばすと、すぐにすり寄ってきた。
まるで、前から知っていたかのように。
「……ただいま、ミラ」
自分でも、どうしてそんな言葉が出たのかわからなかった。
でもミラは、満足げに小さく鳴いて、私の膝に乗ってきた。
それからというもの、ミラは毎晩、私の布団に潜り込んできた。
その小さな体温と、くぐもった寝息が、私を安心させてくれた。
誰かと一緒に眠る心地よさなんて、知らなかったはずなのに。
セイランは、以前より頻繁に訪れるようになった。
最初は月に一度だったのが、いつの間にか週に一度になり、今では数日に一度、顔を見せる。
ミラの様子を見ると言っていたけれど、きっと、それだけじゃない。
何かを確かめるように、何かを待つように、彼は私を見る。
「ミラは元気よ。……あなたも、元気そうね」
「そうだな。君がここにいてくれるからだ」
彼はよく笑うようになった。
でもその笑みの奥に、拭いきれない哀しみがあることに、私は気づいていた。
そして、私の中にもまた──
彼の声に、仕草に、何度も“懐かしさ”が湧き上がることに、私は戸惑いを覚えていた。
知っているはずのないことを、思い出しそうになる。
この家の扉の軋む音も、床の冷たさも、ミラの鳴き声も──
初めてのはずなのに、心のどこかが「懐かしい」と囁いてくる。
私は知らないはずなのに。
なのに、ときどき夢を見る。
燃えるような指先。
夜の窓辺。
誰かが私を見つめる──深く、切ない眼差しを。
夢の中で、私はその人の名を呼ぶ。
でも目覚めると、その名前がどうしても思い出せない。
ある日、セイランがぽつりと言った。
「君の夢の中に、私は出てきたりするか?」
私は笑ってごまかした。
「ええ、たまにね。なぜか、あのお墓の前で出てくるわ」
セイランも笑った。
でも、その笑みは少し、泣きそうだった。
「なら……いい」
そのときの彼の言葉が、どこか、別れのように響いたのは──
たぶん、気のせいじゃなかった。
◇
夜だった。
月が高く、空はやけに静かで、世界が何も語ろうとしない夜だった。
私は眠れずにいた。
理由はない。ただ、胸の奥がざわついて、何もかもが薄皮一枚ぶん違って見えた。
部屋の中、ミラの寝息、風の音──それらすべてが、なにかを呼び覚まそうとしていた。
気づけば私は、椅子の上でうずくまり、膝に額を押しつけていた。
──その姿勢。
あの日も、私はこうしていた。
冷たい石の床の上で、火の灯りを見つめながら。
『……王として、来ないで』
誰かの声が、私の中で響いた。
それは──私の声だった。
次の瞬間、脳の奥が焼けるような衝撃に襲われた。
「っ、あ──!」
私の中に、私ではない“記憶”が一気に流れ込んできた。
牢。
処刑。
火あぶりの命令書。
無言で背を向ける王。
──いや、セイラン。
私が愛したあの人が、
私を殺すことを選んだ。
「やめて……」
声にならない声が喉から漏れる。
浮かぶ。映る。止まらない。
私の処刑書類の、最後の一筆。
顔も上げずに、「これが正しさだ」と呟いた、あの声。
火あぶりにされた時の、あの火の熱さ。
みんなの怒声。
私が──
彼を助けたせいで、死んだ。
彼を信じたせいで、殺された。
私は、殺された。
「リヴィア?」
そのとき、扉がノックもなく開いた。
セイランだった。
どうして来たの。
今だけは来ないで。
私、あなたに優しくできない。
「どうした……顔が、苦しそうだ」
「……思い出したのよ」
「何を?」
「全部よ。あなたが……私を殺したこと」
彼の顔から、色が消えた。
「……そうか」
沈黙が落ちる。
私の中には今、涙も怒りも入り混じっていた。
でも一番強かったのは、やり場のない拒絶だった。
「私……あなたを助けた。血まみれで倒れてたあなたを、家に連れて帰って、看病して。……ずっと、守りたかった。なのに……」
私は唇を噛む。
言葉が、あまりにも重すぎて、喉が痛くなる。
「あなたは私を殺したのよ」
「……あのとき、私には……」
「“王として”しか動けなかった。そう言いたいのよね」
彼は黙る。
それが答えだった。
私は笑った。
それは喜びでも皮肉でもなく、ただ、空っぽな笑みだった。
「いいの。わかってる。あなたは王だったから。私ひとりの命より、国を選んだのよね」
「……君のことを、今も忘れたことはない」
「でも、私の命にはサインした」
ぴたり、と彼が息を呑む音がした。
「その紙にサインする手は、震えなかったでしょ。
それが──本当に悲しい」
私は立ち上がる。
セイランの目を見つめる。
その奥にあるのは、罪の意識と後悔。けれど、もう遅い。
「私は、あなたを……もう、愛せない。
あなたのせいで、私は全身を火に焼かれて死んだのよ」
セイランの唇が微かに動く。けれど、何も言わない。
彼は王だった。
そして私の命に、印を押した人だった。
それは事実で、覆せない。
それが、どれだけの理由だったとしても──
私は、赦せなかった。
「……私はここで暮らせない。ここを出ていくわ。もうあなたに会いたくないから」
背を向ける。
私の中の何かが、きしむ音を立てて崩れた。
けれど、それでもいい。
これは、もう自分ではコントロールできない怒りなのだから。
「君は出ていかなくていい。ここは君の家だ。私はもうここへは来ない」
そして、彼は部屋を出た。
セイランの足音は、遠ざかっていった。
──それでいいのよ。
今の私は、あなたを愛せない。
自分を殺した人を愛するなんて無理よ。
それだけは、どうしても、どうしても、許せないの。
◇
7月14日
孤児院が大勢の兵士たちに取り囲まれていた。
空は曇天、兵士たちの怒号が飛び交う。
私たちの出会ったこの場所は、恐ろしい空気に呑まれていた。
「……リヴィア」
背後から聞こえたその声に、私は全身が凍るような思いだった。
振り返れば、そこにいたのはセイラン。
血にまみれた服、剣を手に、しかしその表情にはただ、静かな諦めがあった。
「まさか、……君が」
私は、何も言えなかった。
言葉にした瞬間、すべてが崩れてしまいそうだった。
「どうして……リヴィア……」
「……ごめんなさい」
それしか言えなかった。
「君が、敵に……いや、君が奴らに知らせたのか? 私が今日、ここに来るって?」
私は頷いた。
「君は、私を……殺すために……」
「違う!!」
叫んでいた。
自分でも驚くほどの声が出ていた。
「違う、そうじゃない……! でも、どうしようもなかったの」
私は話し始めた。
院長が捕らえられ、子どもたちが人質にされたこと。
その交換条件として、セイランを呼び出すように脅されたこと。
誰にも相談できず、ただ時間が迫る中で、私は選んでしまったということ。
呼び出さなくても、7月14日、身分を隠してこの孤児院までお墓参りに来ると伝えたのだ。
「……守りたかったの。たとえ、あなたを裏切ることになっても……」
セイランはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「なるほど。君は、あのときと俺と同じだな」
「……え?」
「何かを守るために、誰かを犠牲にした。……そういうことだ」
私は唇を噛んだ。
「死なないで……お願い、逃げて」
「もう遅い。ここに連れてきているのは最小限の護衛だけだ。完全武装した大勢の兵士たちが、ここを取り囲んでいる。私に勝ち目はない」
そう言った瞬間、沢山の兵士たちに取り囲まれた。
時間切れだった。
セイランは剣を抜いた。
けれど、それは敵に向けるものではなく──私を守る構えだった。
「私は、君の選んだ道を、最期まで信じるよ」
「やめて!そんなの、望んでない!!」
私は彼に縋りついた。
「私のせいで、あなたが……!」
「違う。君のせいじゃない。これは、運命だ」
その言葉が、胸をえぐった。
「駄目……駄目よ、セイラン! あのとき、私はあなたに殺された。
今度は、私があなたを殺すの? そんなの──そんなの、いや!!」
彼は私の手を優しく振りほどいた。
「この女性は助けてくれ。君たちに情報を与えてくれた女性だろう?」
そう大声で言って、彼は私を孤児院の玄関の方に押しやる。そして、一人で敵の方に歩いて行った。
私は叫んだ。
「行かないで!
けれど、彼は振り返らなかった。
敵の包囲網が狭まって、その背中が見えなくなった瞬間、私は膝から崩れ落ちた。
足音が、遠ざかる。
──しばらく後。
歓声が上がった。
セイランは、包囲された状態で戦い、そして討たれたのだ。
彼の剣は最後まで折れず、
彼の視線は、敵を貫いたままだったという。
敵とは、かつてセイランが王太子だった時に、玉座を狙って彼を殺そうとした弟王子の息子だった。
その争いの時に、深手を負ったセイランを前世の私が街角で助けたのだ。
弟王子は殺されたが、その息子らは生き延びて復讐の機会を狙っていた。
私はそのことを、兵士の口から聞いた。
胸が裂けるような思いだった。
心臓が止まるほど泣いた。
叫び続けた。
血のような声で。
あのとき、セイランもこんな気持ちだったのだろうか。
──たった一人の、愛しい人の命に、判を押すということが。
私は初めて、彼の痛みを知った。
そして、遅すぎるその理解が、
私を二度、殺した。
◇
国葬が終わっても、胸の痛みは消えなかった。
小さな部屋の窓辺にある椅子に腰を下ろす。
膝の上にはミラが丸くなっている。
冷たい夜風がカーテンを揺らし、外の星空が見える。
あの広い空のどこにも、もうあなたはいない。
それでも、私はここで生きている。
後悔と痛みを胸に抱えながら。
私は……あの日、あなたの命を救った。
だけどそのせいで、自分の命を失った。
あなたが自ら署名した処刑執行書類も知ってる。
あなたは前世で、私を殺したのよ。
だから、私はもう……あなたを愛することはできなかった。
でも──今度は私が、あなたに同じことをしてしまったのね。
私は、前世のことであなたを責めた。
怒って、恨んで、許せないって思ってた。
なのに、あなたは、私を責めないまま死んでいった。
優しいままで。
……私は、あなたを責める資格なんてなかったんだ。
私だって、結局、同じことをしてしまったんだもの。
そんな自分の本性にも気づかずに、あなたを責めてしまった。
自分の傲慢さが、今はただ、悲しいの。
「あなたはもういない」
誰にも届かない独り言をつぶやく。
ミラの柔らかな寝息が、私の孤独を静かに包んでくれた。
◇
それから私は、猫のミラとふたりきりで生きていった。
セイランのいない世界で、彼の温もりを思い出しながら。
毎晩、窓辺の椅子に座って夜空を見上げた。
あの人がよくしていたように。
季節が巡り、ミラは歳をとった。
私も年とっていった。
セイランにもらった小さな家で、セイランが残してくれたお金で、
日々を静かに送った。
誰にも知られず、誰にも求められず、ただ生きていた。
けれど、それでよかった。
それが、私に残された償いの人生だったから。
ミラが死んだ夜は、ひとりで声を殺して泣いた。
けれどあの子は、ずっと私のそばにいてくれた。
セイランが、私のそばに残してくれた唯一の家族だったから。
私はそれから何十年も生きた。
けれど、そのすべての夜が、あの人を喪った翌日のように感じられた。
最後の夜、私はまた窓辺の椅子に座っていた。
もう目も見えにくくなっていたけれど、夜空のどこかで、彼が私を見ている気がした。
「ねえ、セイラン……
ずっと、あなたのそばにいたかったの。
だけど、こうして遠くから見上げてる人生も、
悪くなかったよ」
夜風がそっと吹き抜けて、ろうそくの火が揺れた。
そして私は、椅子に身を預けたまま、静かに瞳を閉じた。
「……次は、最初からあなたを愛したいわ」




