1 私を殺したあなた
静かな夜。
「夜が来るたびに思うんだ。
君がいた世界は、あんなにも優しかったのにと」
薄暗い執務室に、ペンを置く音だけが響く。
今日もまた、数十枚の書類に印を押した。
誰かが喜び、誰かが不満を口にする。だがそんな声さえ、今の自分には届かない。
窓の外では、王都の灯が揺れている。
この国は今日も平和で、人々は眠りにつく。
それでいい。
それだけで、いいはずだった。
──君さえ、ここにいてくれたなら。
椅子から立ち上がり、カーテンを引く。
夜の気配がそっと入り込む。
冷たい空気が頬に触れるたび、思い出すのは、かつて愛した女性の指先だった。
熱を帯びていて、でもどこか儚げで……まるで幻だったような。
鏡の前に立つ。
映る自分の顔は、相変わらずだ。
感情がない。そう言われてきた顔だ。
けれど君だけは笑いかけてくれた。そんな私を見て、心から。
──だから私も、笑えるようになった。
君のいない世界でも。
それが、生きていくということなのだと。
それが、君を殺してまで選んだ「正しさ」の代償なのだと。
だから私は今日も、生きている。
君がいない、この世界で。
◇
誰もいないはずの部屋で、私はつい目を向けてしまう。
あの椅子。あの家にあった椅子だ。あの部屋から、もらってきたんだ。
あそこに、君が座っていた。
今は君の飼っていた猫のミラが丸くなって眠っている。
窓辺の席を気に入っていた君は、毎晩そこで本を読んでいた。
難しい言葉に眉をひそめながら、それでもめげずに読み進めて、
そして時折、こちらに目を向けて──にこっと、笑う。
その笑顔を向けられるたびに、どうしようもなく嬉しかった。
君は私を“王子”として扱わなかった。
“ただの恋人”として、私を見ていた。
それがどれほど救いだったかを、
私は失ってからしか、理解できなかった。
暖炉に火を入れる気にはなれなかった。
この冷たさすら、君がいないという事実を際立たせてくれるからだ。
ぬくもりなど、もう要らない。
君のいないこの場所で、私はただ生きる。
──君がいたら、笑うだろうか。
「また、暗い部屋で拗ねてるんですね」
君の声が、耳の奥に残っている。
もう何度目の幻聴だろう。
けれど私は、それにすがる。
君の存在が、私の罪の形をしているのだから。
──この罪を、生きて償うしかない。
私はまた机に戻る。
積まれた書類に、黙って印を押す。
やらねばならぬことは、山ほどある。
国を治める王として。
君の命と引き換えに選んだ、この未来の中で。
それでも、思ってしまうのだ。
──君が生きていてくれたなら、と。
この想いが、誰にも届かないことを、私はよく知っている。
だからせめて、自分に言い聞かせるように、今日もこうつぶやく。
「……君がいない世界でも、生きていく」
「……生きるしかないんだよ、私は」
猫のミラが目を開けて私を見た。
【リヴィア視点】
初めて会った日のことを、よく覚えている。
あの人は、街の片隅で倒れていた。
夜の帳が下りかけた、帰り道。
私は灯籠の光を頼りに歩いていて──ほんの偶然、彼を見つけた。
血の匂いと、焦げたような魔力の残滓。
誰かに襲われたのだと、すぐにわかった。
貴族の服を着ていたけれど、身分を語ることはなかった。
それでも私は、迷わず彼を自分の部屋に運んだ。
「どうして助けたのかって?」
私は視線を落とした。
寂しかったからーー本音は言わなかった。
「だって……」
それに、あのとき、私にはどうしても、彼を放っておけなかったのだ。
「名は?」
熱が下がり始めたころ、彼がそう聞いた。
無愛想で、ぶっきらぼうで。
でもその声には、かすかに迷いがあった。
「私はリヴィア。あなたは?」
彼は少し間をおいて、目をそらすように言った。
「……名乗るほどの者じゃない」
「ふうん。じゃあ、呼び名どうしようか」
勝手に椅子を引き寄せて、彼の隣に座ったとき。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そんな顔を見るのは、後にも先にもそれが最初だった。
そして私は思ったのだ。
この人も、きっとひどく孤独なんだって。
小さな部屋で、静かに日々は過ぎていった。
彼はほとんど口を開かなかったけれど、
夜になると、窓辺で黙って星を見上げていた。
私はその隣に座りながら、思っていた。
──この時間が、ずっと続けばいいのに、と。
それが、最初の願いだった。
◇
彼は、何も語らなかった。
名前も、過去も、なぜ傷ついていたのかも。
私はそれを責めなかった。
問い詰めたところで、彼はきっと答えないだろうと、最初からわかっていた。
だから、私は代わりに話した。
私の名前、育った孤児院の話、拾った猫の話、
魔法に憧れて、本を盗み読みした話。
「……文字を読めるのか」
そう呟いた彼の目に、わずかに驚きが浮かんだ。
「うん。変かな?」
「……いや」
「貴族の世界では、平民が文字を読んだら怒られるの?」
「本を読むのはいいが、魔法を使ったら罰される」
彼はそれ以上、何も答えなかった。
その沈黙が、答えよりもずっと重く感じられた。
それでも、私たちの時間は静かに流れていった。
ある日、私は魔法を見せた。
火を灯す魔法。ほんの小さな火種だったけれど、
それを見た彼は、なぜか目を逸らした。
「あなたにも魔法、使えるんでしょう?」
「……そうだ」
「教えてくれたらいいのに」
「……教えない」
「どうして?」
「君が、それを使えることがばれたら──君は捕まって処刑される」
それが初めて、彼の声に怒りが混じった瞬間だった。
私は、何も言い返せなかった。
ただ、胸の奥が痛んだ。
そんなに私のことを心配してくれる人は、
それまで一人もいなかったから。
その夜、私は彼に聞いた。
「あなた、何者なの?」
彼は少しだけ、考えるように天井を見上げて──
それから、ゆっくりと、こう答えた。
「ただの……何者でもない人間だよ」
「じゃあ、私と同じね?」
「ああ、そうだ」
そのときの彼の顔を、私は今でも覚えている。
月明かりの中で、ほんのわずか、口元が緩んでいた。
きっと、それは微笑みだった。
──あの人が初めて、私に向けてくれた。
たった一度きりの、笑顔だった。
◇
季節が、ひとつ変わった。
彼がうちに来てからずいぶん経ったころ、
私はある日、ふと思ってしまったのだ。
──このまま、ずっと彼と暮らせたらいいのに、と。
彼は、朝になれば外に出て、夜に戻ってきた。
身分を隠して働いているのだろうか。どこに行っているのか、私は聞かなかった。
けれど、帰ってきて最初に目を向けるのはいつも私で、
「ただいま」も言わないくせに、椅子の背もたれにそっと手をかけていた。
言葉ではない何かで、
彼はいつも、ここに“戻ってきて”くれていた。
その日は、雨だった。
私は小さなミスで魔力を暴走させて、指先を少し焼いてしまった。
ほんの切り傷だ。それでも彼は、何も言わずに私の手を取って、
じっと、見つめていた。
薬を塗る手が、震えていた。
「……痛かったか」
「平気。ほら、もう大丈夫」
「……二度とするな。魔法を……使うな。見つかったらどうするんだ」
「心配してくれるの?」
「……当然だ」
私は笑ってしまった。
彼がそんなふうに怒るのは、とてもめずらしかったから。
そして、つい、言ってしまった。
「じゃあ、ずっとそばにいてよ。
私が魔法なんか使わなくて済むくらい、
あなたが、ずっと守ってくれたらいいのに」
沈黙。
その一瞬の静けさに、私は何かが変わる音を聞いた気がした。
彼は私の手を放さなかった。
そのまま、目を見つめてきた。
──まっすぐに。
その瞳の奥に、言葉よりも深い何かがあった。
「……そうしよう」
「え?」
「君が望むなら、そうしよう。……どれほど罪深い願いでも、私が叶える」
その夜、彼は初めて私に触れた。
燃えるように熱い指先だった。
それでも私は、少しも怖くなかった。
けれど、幸福は長くは続かなかった。
数日後。
町に、王宮の紋章を掲げた馬車が入った。
何気なく耳にした言葉に、私は凍りついた。
「逃げた王太子の捜索だそうだ。情報を提供した者には、褒賞金が出るとか」
──そのとき、すべてが、繋がった。
家に戻ってきた彼に、私は言った。
「ねえ……あなた、本当は誰なの?」
彼は一言だけ、こう答えた。
「……もう、逃げられない」
その夜、彼はひとりで出ていった。
「すぐ戻る」とも、「待っていろ」とも言わなかった。
ただ、扉の前で一度だけ振り返り──
まるで、もう二度と戻らないことを知っているような目で、私を見つめた。
私は、その瞳を最後に見た。
そして、彼は二度と帰ってこなかった。
【セイラン視点】
──名前を、呼ばれた気がした。
誰もいないはずの王宮の廊下で、ふと、そんな錯覚に囚われた。
振り返っても、誰もいない。
それでも私は、確かに聞いたのだ。
あの声を。
私の名を呼ぶ彼女の声を──
「……セイラン様」
王家には複数の子がいて、
私は「嫡男」だが、人気や政治力では劣っていた。
国王が崩御してすぐに、王太子暗殺未遂事件が起きる。
これは、
「彼の死によって後継を別の王子に替える」ための内部謀略。
私はこの襲撃で深手を負い、
護衛も殺され、王宮外に逃げ落ちた。
そして──
そこで出会ったのが、私を助けたリヴィアだ。
リヴィアはその日たまたま街角を歩いていた。
血まみれで倒れていた男を見て、
最初は盗賊に襲われたのだと思ったらしい。
でも――
「……このまま、放っておいてくれていい……」
そう言って倒れ込んだその男が、
のちの王、セイラン──私だった。
彼女は迷う。
けれど目の前で死にかけている命を見殺しにできなかった。
そして、彼女のおかげで命を繋ぐ。
家に連れ帰り、血を止め、寒さを和らげ、
1日、2日と看病を続ける。
私は名を伏せたまま、「身分は聞かないでくれ」と言った。
リヴィアも聞かなかった。
ただ、人として向き合ってくれた。
傷が癒えた後、
私は王宮に戻り、内部の粛清が行われ、
「暗殺未遂の被害者」として王位を継ぐ。
だが──
王となった私は、
リヴィアの存在を明かせなかった。
彼女は平民で、恩人で、そして「魔力持ち」。
魔力持ちは見つかれば処刑されてしまう。
守るために距離を取る。
でもそう上手くはいかなかった。
私を迎えに来た騎士たちが、リヴィアに魔力の残滓を見つけたのだ。
リヴァアは牢に繋がれた。
◇
「ご決断を」
重々しい声が室内に響いた。
議会の長老のひとりだ。私に“決断”を迫ってきた者のうちの、最も穏健だった男。
──だが、言っていることは、変わらない。
「たとえ、あの娘が陛下の命を助けたとしても、魔術師は見つければ処刑することに決まっています」
「……わかっている」
机の上に置かれた、ひとつの書類。
その最下段に、私の署名欄がある。
この国の“秩序”のために。
そして、なにより──
「私がここで生きていくために」
私は、リヴィアを差し出さなければならなかった。
彼女は、黙っていた。
牢に連れて行かれたときも、処刑の危機が迫る今も。
一言も抗議せず、泣きもせず、ただ静かに、空を見ていたという。
その姿を、私は直接見ることができなかった。
逃げたかった。
これが夢であってほしかった。
だが違う。これは私が招いた現実だ。
私が王であり、彼女は“民”でしかない。
私が王であり、彼女は罪人だ。
そして、王である私が、
その命に判を押す義務がある。
執務机にペンを取る。
手が震えることはなかった。
これが初めてではなかったからだ。
私は、これまでにも多くの命にサインしてきた。
顔も知らない誰かの、生死の判断を。
それが、“王になる”ということだ。
……ただ違ったのは、
今回、その誰かが彼女だったということだけだ。
「……セイラン陛下、王として──ご決断を」
再びそう言われて、私はようやくペン先を紙へ落とした。
カサリ
その音は、雪のように静かだった。
だがその一音で、
私の人生のすべてが終わったのだと、わかっていた。
【セイラン視点】
処刑前夜。
王宮の地下にある、最も静かな牢。
昼も夜もない空間で、リヴィアは床に座り、ただ火の灯りを見つめていた。
魔力を抑える首輪。
鉄の格子。
濡れた石の壁。
そして、足音。
彼女は顔を上げない。
入ってきたのが誰か、最初からわかっていたように。
「……リヴィア」
しばらく沈黙が続く。
彼女は、何も答えない。
私を見ない。
ただ、静かにそこにいる。
「……君を、助ける方法を、探した。探して、探して──。
でも、私は、君を……私は国王なのに君を助ける術を持たない」
その声すら、返事を得られない。
やがて彼女が、小さくつぶやく。
「……お願い。王として来ないで」
それだけだった。
私は言葉を失い、ただそこに立ち尽くす。
赦してほしいわけでもない。
けれど、その一言が──
王冠よりも、剣よりも、重く、深く、心に突き刺さる。
沈黙。
ふたりの間にあったはずの何かが、もう完全に消えた気がした。
「……明日、君は……」
私の言葉が続く前に、リヴィアは初めて私を見た。
静かに。ゆっくりと。
それは慈しみでも怒りでもなく、ただ──
「処刑されるのね」
それだけを言って、また目を伏せる。
もう、彼女に語ることなど何もなかった。
◇
処刑の当日。
私は“王”として、その場には立ち会わなかった。
会えば、取り返しのつかないことをしていたかもしれない。
それがわかっていたからだ。
後悔することが、最初から決まっている選択だった。
……なのに、私は選んでしまった。
彼女を、守ることより。
彼女と、逃げることより。
彼女を、この世界に残すことより──
私は、“王としての正しさ”を取った。
あとで、処刑を見届けた者から、こう聞かされた。
彼女は、最後に笑ったのだという。
「……あなたが、生きていてくれてよかった」
そう伝えてと言って、微笑んだのだと。
そのとき、私は、声もなく嗤った。
救いになどならないと、思った。
この言葉は、私の魂に、一生消えない傷を刻むためにある。
彼女は、私を許してなどいない。
あれは、“許したふり”をしただけだ。
私はそれを理解している。
だから私は、生きる。
死んではならない。
──私の命は、彼女によって延命された。
ならば、私は彼女の死を背負い、この世界で生きていくべきなのだ。
今日もまた、夜が来る。
あの笑顔を思い出して、私はひとり、口を閉ざす。
もはや涙すら、出てこない。
愛していた。
愛していたのに──私は、彼女を殺した。
殺すしかなかった。
◇
王宮の玉座の間には、今日も多くの者がひれ伏している。
祝福の言葉、忠誠の誓い、拍手、演奏──
王としてのセイランは、すべてに静かに頷き、応えていた。
だが、誰も知らない。
この王が、夜に目を閉じるたび、地の底に落ちていくことを。
彼女が処刑されてから、五年が経った。
王宮内も安定を取り戻した。
“よき王”と呼ばれることも増えた。
だが──
「……誰も、君の名を知らない」
セイランは執務室で、ふと机の引き出しを開ける。
奥に、小さな布がある。
あの日、彼女が彼を助けたとき、額に巻いていた包帯の端切れ。
一度も洗っていない。
血と灰の匂いが、まだ微かに残っていた。
「君の死は、正しかったか?
それとも──
最初に死ぬべきだったのは、私の方だったか……」
答えは、どこにもなかった。
リヴィアの墓はない。
魔術師として罪を問われた少女の名など、国史には一行も載っていない。
そして、彼女の姿は、
私の夢にも──一度も現れなかった。
(なぜだ、リヴィア……
なぜ、夢の中くらい、私を赦してくれない)
ある夜、私は小さく笑った。
「ああ、そうか。
君は、怒ってすらいなかったんだな。
何も言わずに、何も残さずに──
私の中に、“永遠に終わらない問い”だけを置いていった」




