第七十九話 オレの話をきけ
西階段から廊下を駆け抜けた。窓から朝の白い光が差し込んでいる。冷たい空気が、足元を抜けていった。
すれ違う人はほとんどいない。それでも、すれ違ったやつはみんな、俺を見て少しだけ目を丸くした。
紗奈の教室の前に立つ。心臓がうるさい。
教室の引き戸は半分だけ開いていて、中から机を動かす音がした。
引き戸を開けて中を見た。何人かが一瞬こっちを見て、すぐに視線を戻した。
中では、何人かが席に座っている。机に突っ伏しているやつ。友達の机に腰を預けて、小さな声で喋っている女子。黒板の前では、日直らしい男子が日付を書いていた。
紗奈はいない。
昇降口に走り、紗奈の下駄箱を見る。
上履きがある。
俺は靴を履き替え、人の流れと逆に走った。
登校してくる生徒たちとすれ違う。
その顔の中に、紗奈を探す。
息が切れてくる。
河原まで来た。土手の歩道には制服の集団が点々と続いている。自転車がその横を抜けていく。反対側の土手では、ランニング中のおじさんがゆっくりと腕を振っていた。
人が多くて、顔が見えない。
背の低い紗奈は、男子の陰に隠れてしまう。
ふと後ろを振り返ると、下を向き歩く女子の鞄にミニオンのボブが見えた。
髪を切っているが、あの後ろ姿は紗奈だ。
俺が足を止めた音に、紗奈が気づいて振り向いた。
紗奈は、一瞬、足を止めた。
でも、すぐに顔をそらして歩き出した。
「紗奈!」
呼んだ。
紗奈は止まらなかった。
「紗奈ってば!」
もう一度呼んだ。
それでも、止まらなかった。
周りの生徒が何人かこっちを見る。見るだけで、みんな知らん顔をして通り過ぎる。
俺は紗奈の後ろまで追いついた。息が完全に切れていた。
「……はぁはぁ……紗奈」
手を伸ばして、腕をつかんだ。
紗奈はすぐに振り払って、何も言わず、止まらず歩き続けた。
俺はもう一度、手を伸ばした。
手が軽く触れた。
紗奈が手を強く振った。
「……なんで」
紗奈がようやく止まって口を開いた。
「なんで追ってくるの? ほっといて」
その声で、少しだけ周囲が静かになった気がした。気がしただけだ。
生徒たちは話しながら歩いているし、自転車はベルも鳴らさず横を抜けていく。
俺は紗奈の前に回り込んだ。
紗奈の顔が、正面に来た。
怒っている顔ではなかった。
だけど、泣きそうだった。
「伊織、その優しさ、要らない」
そう言って歩き出し、俺の横をすり抜けようとした。
俺は、一歩下がった。紗奈は足を止めた。
「もうやめてよ。遅刻するじゃん」
紗奈は、わざとらしい笑顔を作った。
「紗奈、その笑顔は要らない」
「なに? 喧嘩売ってんの?」
紗奈が俺を睨む。そのまま時間が過ぎていった。
通り過ぎる生徒の数が減っていく。
「放っておいてって言ったでしょ。もう遅刻決定じゃん。本当に怒るよ?」
学校の方から、朝のチャイムが聞こえる。
「……一度くらい、オレの話を聞けや」
やっと言葉が出た。
「なに? 一度でもちゃんと話したことある?」
「せやから、今からすんねやろ」
「へぇ……何を話してくれるの?」
俺は小さく深呼吸をした。
「オレな、紗奈が好きだわ」
行き交う人はいなくなっていて、風で草がなびく音と遠くの方を走る車の音だけが耳に届いた。
「…………え、だって」
「美月――やろ? 付き合ってへんて言うてるやん」
「だって、みんなが……」
「他のやつのことなんか知らん」
「じゃあ……」
「紗奈にウソは言わん」
「……」
「勘違いされる行動はした。それで紗奈を傷つけた。それは認める」
「……うん」
「せやけど、オレは紗奈のことが好きやねん」
言葉のない時間が流れた。
学校の方から二度目のチャイムが聞こえた。もう一時間目が始まった。
「どうしようもなく、好っきゃねん」
紗奈は黙って俺を見つめ続ける。眉間にしわを寄せ、口を横一文字に閉じている。
その目をギュッとつむった。
目尻の横から涙が一筋だけ流れた。
次の瞬間、胸元に紗奈の頭があった。
背中に紗奈の手を感じる。体が締め付けられている。
五分くらいそのまま固まっていた。街が活動を始めた音たちが耳に届いていた。
紗奈が顔をうずめたまま、静かに話しだした。
「……ごめん……あたし……ごめん」
俺はそのまま手を紗奈の背中に回した。
「いや、俺の方こそごめん」
紗奈が俺を見た。泣きながら笑っている。
「うん。あたしも、伊織、ずっと好きだから」
誰もいなくて良かった。
俺たちはしばらくそのまま抱き合っていた。
もしかしたら、向こう岸から見られているのかもしれない。だけど、それももうどうでも良かった。
「……オレは、おとんとは違う」
「え?」
紗奈が腕の力を緩めた。俺は一歩だけ離れた。
「来年さ、一緒にUSJ行こう」
俺は前を向いたまま言った。すると紗奈が、俺の左腕に右腕を回してきた。
紗奈は黙って俺の横顔を眺めている。少し間を空けて、紗奈を見た。
「マスターにも会いにいこう」
「うん」
紗奈は大きく頷いて、絡めた腕をほどいて手を握ってきた。
「一時間目サボっちゃったね」
「せやな。昼に間に合えばええんちゃう?」
「そだね」
「ほな、このまま――」
「だめだよ。二時間目からは出ないと」
「まじめやなー」
校門の前までふたりで手をつないだまま歩いた。会話が途切れることはなかった。
校門で手を離し、その手を小さく振って、ふたり別々に昇降口に入っていった。
紗奈の指の感触が少しだけ残っていた。
温かくないはずの温かさが、なんだかとても不思議だった。




