第七十八話 お約束からは逃げられない
ずっと、予定調和を避けてきた。それなのに今日は、分かっていながら、そこへ向かう。
朝の校舎は、まだ祭りの名残を残していた。
廊下の端には、まだ剥がし忘れた矢印テープが残っている。昇降口の横には、回収待ちの段ボールが積まれていた。
俺は教室に鞄を置いて、そのまま階段へ向かった。屋上に続く階段は、普段より空気が冷たかった。
踊り場に五百城が立っていた。
「伊織くん、おはよう」
「おはよう、五百城」
五百城はいつも通りの声だった。でも、顔はいつも通りではなかった。
屋上の扉の前に立つ。
五百城が、取っ手に手をかけた。
がちゃり、と音がした。
扉が開いた。
言葉はなかった。
俺より先に、五百城が扉を開けて外へ出た。
屋上から見る校庭は、いつもより遠く見えた。
フェンスの向こうで、校庭の白線が薄く残っている。隅の方に折りたたまれた長机が二つだけ残されていた。
「……伊織くん」
五百城はフェンスの近くまで歩いて、振り返らずに言った。髪が風になびいていた。
「私ね、ここで伊織くんに告白されたんだ」
「……そうなんやろな」
「なんでわかるの?」
五百城は校庭の方を見たままだった。
「俺が今、五百城を好きだから。きっと他の俺も同じ」
「でも、それ本気じゃないよね?」
「なんでそう思うん?」
少し風が吹いた。フェンスが鳴った。
五百城の髪が、少しだけ持ち上がった。
「だって、それが本当なら、私、四月に戻っちゃうはずだから」
五百城は笑わなかった。
「……やっぱり。だから葛西から上川……か」
「うん」
「松田が上川を好きになる。空いた五百城を俺が好きになって、四月に戻される。それがお約束だった」
「そう……だね」
「だから、あの時、怖がった」
「……うん」
「でも、今はそれとはちゃう……と」
「たぶんだけど」
「ほな、ゴールはなんなん?」
「わかんない」
五百城が俺の方に顔だけ向けた。眉間に皺が寄っている。だけど、口元は笑っている。
「私もいろいろ試したんだ……」
「いろいろって?」
「自分から告白してみたり、誰とも話さなかったり。でもね、なにしても四月に戻されちゃう」
「そっか」
「ここで伊織くんに告白もしてみた」
「……」
「だけど、やっぱり戻された」
五百城はようやく、体ごと俺の方を向いた。
「……でもね、私ね、今までとひとつだけ違う」
「なにが?」
五百城は自分の手を見た。
「私ね……」
風が吹いて、フェンスが鳴った。
「伊織くんのことが《《本当に》》好き」
風で、五百城の髪が少し乱れた。
それでも五百城は笑っていた。
「これできっと、四月に戻るし、忘れるんだろうけど……」
こんなのは、お約束や。予定調和や。
「伊織くんと過ごして、私、本当に楽しかった」
逃げればええねん。それがモブやねん。
「でも、私のこと、忘れないでほしい」
五百城は泣いてはいなかった。震えながら笑顔を作ってる。
きっと、自分が四月に戻されると分かっていて、それでも、決めてたセリフを言ってる。
松田も、中元も、親父も、みんな同じだったのか。
みんな、自分で場面を作って、その中の自分を演じてた。
好きな人を、好きなままでいたいから。
今の五百城も、それと同じ――
俺は膝から崩れた。気づいてしまった。
「伊織くん……?」
「……そうか……俺か。俺が五百城を閉じ込めてんねや」
違う――そう思いたかった。
「どうしたの? なに言ってるの?」
五百城の予定調和から、俺が外れたらしい。
「……屋上の鍵」
自分の声が、自分の声じゃないみたいに聞こえた。
「……初めての合宿、葛西と上川、これ全部、分岐……五百城がそこで戻った跡……?」
屋上の扉が、背後で小さく軋んだ。
「……なんでわかっ――」
「つまり、今さっき、この扉が開いたのも分岐……」
五百城は軽く目を閉じて、うなずいた。
「うん。私が告白したから……だから――」
気づいたら、五百城の肩に手を伸ばしていた。
「おおきにな。俺も五百城のこと、好きや」
そのまま、抱き寄せた。
五百城は目を開いたまま固まっていた。
少し遅れて、目を閉じた。
涙が頬を伝った。
その手が俺の背中を抱きしめた。
「うん」
「五百城と出会ってから、人生が変わった気がする。まだ短い人生やけど」
「うん」
「松田みたいな一軍と遊ぶようになって、花火も夏フェスも行って、合宿で怖がって、文化祭でタコ焼き売って……」
「……」
「USJに行って、埴輪作って……」
いつの間にか涙が流れていた。
「こんなん、好きにならへんわけがない」
「うん」
抱きしめる五百城の力が強くなった。
「めっちゃ、好きやねん……でもな」
「うん」
「……でもな、もっとそれ以上に好きな人がおんねん」
「うん、知ってる」
「だからな、俺、行くわ。五百城が消えないうちに」
「……え?」
五百城の腕の力が抜けた。俺は五百城の肩に両手を置いて、少し隙間を空けた。
「……正直な、わからへん。でもな、五百城は自分を賭けたんやろ。それなら、俺も賭ける。今の五百城を戻したくない」
五百城は真っすぐ俺を見ている。
「とりあえず、行くわ。やってみる」
「…………」
「もし四月に戻ったら、今度こそ俺と付き合うんかもね」
五百城は少し長めの瞬きをした。
「それは無理だよ。私は、私を見てない伊織くんが好きなんだから」
ようやく五百城が笑った。
「そっか、そうやな」
俺と五百城は、きっと同じことを考えていた。
「ほな、行ってくる。きっと、ランチタイムで」
「うん、待ってる」
俺は屋上の扉を開けて階段を駆け下りた。
誰もいない階段に俺の足音だけが響いて返ってきた。
廊下を走る俺を振り返る人は誰もいなかった。




