第六十九話 ソースの匂い
教室の前には、去年の文化祭の写真が貼られていた。段ボールで作った門。やたら気合いの入った看板。焼きそばを持って笑っている知らない先輩。
黒板の右端にも、朝から白いチョークで『文化祭 係決め』と書かれていた。誰かがその下に小さく『演劇』と書き足している。
教室の後ろには、畳まれた段ボールが積まれている。その横に、ガムテープ、カッター、マジックなどが、まとめて置かれていた。
昼休みになって、机を寄せる音があちこちで鳴った。さっそく弁当の匂いが広がる。
俺はいつものごとく、財布を持って購買に向かう。
新製品なんてほとんどないのに、毎日期待して、がっかりしてカレーパンを買う。
教室に戻ると、上川と松田が文化祭の話をしていた。
「放課後、演劇の役決めだって」
上川が箸を持ったまま言った。
「あー、さすがにそろそろ決めな間に合わないもんな」
松田は唐揚げを箸で挟んで、黒板を見て言った。
「海斗くんは、サッカー部の方?」
「いや、人数たくさんいるし、やたら気合い入ってて、ちょっと悩んでる」
「あれ、珍しい。海斗くん、いつもノリノリじゃん」
「たぶん、伊織が感染した」
自分の名前が耳に入って、松田の方を向いた。
「てか、上川はどうすんねん?」
「えー、どっしよー。今年は、参加しておきたいんだけどね。でも、友達いないし」
上川は肩をすくめて笑った。
「あ、じゃ、日菜ちゃん、俺と一緒に演劇やっとこか?」
上川の目が、分かりやすく輝いた。
「え、いいの? ありがとー」
うんうん。仲良きことは良きことかな。
「五百城はどーすんの? 剣道部でタコ焼き?」
「うーん。清水くん張り切ってるけど、私、あのノリ嫌いだから」
五百城の口から「嫌い」という単語が出てくるとは思っていなかった。
「じゃぁさじゃぁさ、美月ちゃんも演劇しよーよ」
上川が松田と一緒に、五百城を見る。
「……うん。そうしようかな」
五百城は小さく頷いた。
「やったね!」
上川と松田がハイタッチした。
「大西は?」
「とうぜん、両方サボタージュ」
そう言いながら俺は、席を立ちパンの袋をゴミ箱に捨てて、そのまま教室の外に出た。
その日から、放課後の廊下は、いつもよりうるさくなった。
各教室の扉が開きっぱなしになっていて、机を動かす音や、椅子を引きずる音が流れてくる。
二年の廊下の端では、女子が模造紙を広げていた。誰かがマジックのキャップを落とし、それを拾おうとして別の誰かの足にぶつかっている。
準備始まってんねんなぁ。
俺は、周囲の雰囲気など無視して、道着に着替え校庭に向かう。
文化祭組の中元はいない。気持ちよくランニングできていた。
数日後、道場に向かうと、庇の下に人が集まり、祭りの匂いがしていた。
道場の庇の下では、ホットプレートが広げられていた。延長コードが窓から伸びている。
何人かが竹串を持って、真剣な顔でつついていた。隣で清水が腕を組んでいる。
誰が見ても、タコ焼きを焼いている。
「おつかれさん」
それだけ言うと、俺は清水たちと目も合わせずに道場に入った。
中では、文化祭組ではない連中が、防具の準備をして待っていた。
男子は一年が三人。女子は二年が四人。なぜか演劇に参加するはずの五百城もいた。
俺も、中央に正座をして待った。
中は静かだった。誰も何も話さなかった。外からは、タコ焼きの匂いと浮かれた笑い声がする。
部活が始まる時間になった。
清水たちは来なかった。
五分が過ぎ、外から笑い声がした。タコ焼きがどこかへ逃げたらしい。
さらに五分過ぎて、清水が道場の入口に来た。
道場の中にいた何人かが、清水を見た。
俺も見た。
ジャージの袖をまくっている。手には竹串を持ったままだった。先に小さな生地のかけらがついている。
「ごめん。タコ焼きの練習、終わらない。稽古はじめといて。先生、今日来ないし」
この清水の言葉に、本音が漏れた。
「なぁ、強くなりたかったんちゃうのん?」
清水の眉が動いた。
「は?」
「や、強なりたいん? 楽しみたいん?」
外の音が、一拍遅れて小さくなった気がした。
清水は俺を見た。
「お前こそ、熱血したくないって言ってたやろ」
「……あー、それはその通りやなー」
一拍だけ置いて、みんなの方を向いた。
「ほな、ま、俺らは剣道しよかー」
それぞれ脇に竹刀を取りに行った。
「五百城、女子主将やろ。準備運動と素振りの掛け声お願い。俺、センセに稽古内容聞いてくる」
「はい!」
五百城がやたら大きな返事をした。
清水は何か言いたげな顔でこちらを向いたまま、外に出ていった。
教官室にも職員室にも顧問はおらず、結果的に、その日の稽古内容は俺が決め、号令も全て俺がすることになった。
結局、文化祭組は稽古に参加しないまま終わった。
「整列」
自分の声が、思ったより道場に響いた。
八人が横一列に並ぶ。
「正座」
膝が床を打つ音が、順番に鳴った。
「黙想」
目を閉じる。外の笑い声が、耳につく。道着にソースの匂いが付いた気がする。
「やめ」
目を開ける。
「正面に、礼!」
全員がそろって頭を下げる。
八人が道場から出たとき、文化祭組はまだ、タコ焼きを焼いていた。いや、もう焼いてはいなかった。
ただ、楽しそうに騒いでいた。
清水は、竹串を持ったまま、何も言わずにこちらを見ていた。




