第六十一話 大阪湾の夜景
俺は今、苦境に立たされている。
場所は、大阪ベイエリアのホテルの一室。三人部屋だ。
夕飯と宿泊は、出席番号順で勝手に決められていた。
全員がモブなら、静かにスマホゲームに興じられた。
だが、目の前には、女子とは距離を置き、男同士で固まる系男子の安達と江口がいる。もちろん偏見だ。
男同士で固まるからといって、モブとは限らない。このふたり、むちゃくちゃしゃべる。とにかくしゃべる。
どうやら、明日、海遊館観光コースらしい。
「なぁ、大西って大阪なんだろ? 海遊館で何時間つぶせる?」
「道頓堀って、怖いところじゃなかったっけ?」
「通天閣って、観るものある?」
俺は、このふたりと話したことはほとんどない。なのに、普通に声をかけてくる。気のいいやつらだ。
だが、モブの俺には、この手の話は苦手である。「どの女子好き?」トークよりはマシと思えるレベルである。
夕飯時からすでに三時間を経過し、俺は限界だった。
「ちょっとロビー行ってくる」
それだけ言って部屋を出た。
部屋を出ると、廊下の空気が少しだけ冷たかった。各部屋から笑い声やら、ドライヤーの音やら、誰かの叫び声やらが漏れている。
階段を降りてロビーに行くと、うちの高校の生徒で埋め尽くされていた。
ソファでスマホを見ている男子。自販機の前でぼーっとしている女子。立ち話をしている幾つかのグループ。
「……なんだかなぁ」
座るところが見つからず、自販機で缶コーヒーを買って、柱に寄り掛かって飲んでいた。
こういう時、だいたい、あいつがやってくる。
「あ、やっぱりいた」
紗奈だ。まだ少し濡れた髪のまま、ジャージとTシャツ姿で小走りでやってきた。
「お、紗奈も馴染めない系?」
「一緒にしないでよ。恋バナばっかで疲れたから、ちょっと休憩」
「それ、馴染めないと同じちゃうのん?」
「あ、同じかもね」
どこかに座ろうかと、ロビーを見渡したけど、やっぱりどこも空きそうになかった。
「なぁ、ちょっと外行かへん。俺、この雰囲気苦手やわ」
「え? 昼間も怒られてなかった? また怒られるよ?」
「あら、見てた? 大阪城見学サボったわ」
「見てた。伊織、なんか機嫌いいよね」
「せやねん。機嫌いいから、外行きたいねん」
紗奈が、口を一文字に閉じて鼻から息を出した。
「んー、まいっか。ちょっとだけね」
ふたりでエントランスを出ようとしたとき、受付のホテルマンに止められた。こういう場合は、堂々としていた方が怪しまれない。
「いや、この子、忘れ物して買いに行きたいらしいっす。ひとりだと危険なんで、俺ついていこかと」
「それでしたら、ここを真っすぐ行けば、百五十メートル先にコンビニエンスストアがございます」
「ありがとうございます。ほら、いくでー」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
俺は先に歩き出す。紗奈はホテルマンに軽く頭を下げてから、走って俺に追い付いた。
「伊織って、なんかすごいね」
「なにが?」
「なんか……ぜんぜん悪びれない」
「悪いことしてへんもん。ほらこっち」
俺はコンビニではなく、ホテルの横の通路へ曲がった。
「そっちコンビニじゃなくない?」
「コンビニなんざ行くかいな。ええからついてき」
ホテルの横道を進むと、その先に海沿いの小さなデッキが見えた。
「……あ、すごい。きれい」
目の前には大阪湾。その遥か向こうには、工場地帯が放つ無数の白い輝きと、縦横無尽に街を駆け抜ける高速道路の光の帯が、視野いっぱいに広がっていた。
「せやろ。この近く、たまに親父と釣りに来てたからな」
平日の夜だからか、人は少なかった。少し離れたベンチで、別の男女が、声を抑えながら楽しく会話をしていた。
「よいこらしょっと」
俺はデッキの段差に座った。しばらく立ちっぱなしだったからか、少し膝が震えた。
「おじさんみたいな声出さないでよ」
隣に紗奈が座った。ふわっと潮の香が、海の方から押し寄せた。
「なんか、まだわたしが知らない伊織がいるんだねー」
「そらそやろ。他人なんて一生わからへんわ」
「えー、それなんか寂しくない?」
「そう? 知ってる方がつまらへんくない?」
「どゆこと?」
「なんていうんやろか……。あ、そっちなん? って方が楽しくない?」
「あー、それはわかる。でもさ、期待して裏切られたら、腹立たない?」
「ふむ。それはそやな」
「ま、なんでもいいや。伊織、なんかいい顔してるし、大阪来れて良かったね」
海を見ながら顔を合わせず話す紗奈は、初めて会った紗奈とは別人に見えた。
「せやな。来て良かった。つまらん思てても、とりあえず参加してみるもんやな」
「そだよー。あ、海遊館って何見たらいいの?」
「海遊館といえば、ジンベイザメやろ。あと、周りよく探したら昭和レトロな店とかあると思うで。紗奈好きそう」
「へぇ。じゃあさ――」
紗奈と海を見ながら、それから、大阪観光について話をした。ビリケンさんに、スパワールドに、串カツに。紗奈とする大阪の話は楽しかった。
ふとスマホの時計を見たら、もう一時間以上が過ぎていた。
「あ、もうこんな時間か」
「コンビニじゃないって絶対バレるよね?」
「ここは大阪や。気にすんな」
ホテルに戻ると、さっきのホテルマンがこちらを見て、少しだけ会釈した。
「おかえりなさいませ。ご所望の物はございましたか?」
紗奈はそれを聞いて驚いて俺を見た後、少しだけ笑った。
「はい。ありました」
俺が答えると、ホテルマンは何も言わずに頭を下げた。
見て見ぬふりをしてくれる。言葉で覆い隠してくれる。この大阪の文化が、俺は好きだった。




