第六話 わたしのこと嫌い?
翌朝、俺はいつもより少し早く学校に着いた。
早く来たかったわけではない。早く来てしまった。
下駄箱で靴を履き替え、教室には向かわず、西階段へ歩く。
昨日、五百城と屋上に出た階段だ。
朝の校舎は、放課後より音が薄い。廊下の端で、誰かが窓を開けている音がした。遠くで、吹奏楽部らしいロングトーンが伸びている。
俺は三階まで上がった。屋上へ続く階段の前に立つ。
『屋上立入禁止』
昨日と同じ掲示。その先の鉄扉にも、昨日と同じ赤い札が下がっていた。
『施錠中』
俺はドアノブに手をかけた。
動かへん。
もう一度、少し強く引いた。
やっぱり動かへん。
当たり前やな。これが正解や。
だが、昨日はなんなく開いた。
「大西くん」
下の方から声がした。
振り向くと、五百城が階段の下からこちらを見上げていた。
なんでそこにいる?
「なにしてるの?」
「五百城こそ、なにしてんの?」
五百城は、少しだけ首を傾けて答えた。
「確認、かな?」
「……なんの?」
「ドアが開くか知りたくて」
俺は返す言葉を失った。五百城が前もって鍵を開けていたと予想していたから。
「……で、開いた?」
五百城はその場から聞いてきた。俺は答えた。
「いや、閉まってる。がっちりと」
「……うん。やっぱりそうだよね」
驚いている様子はない。
驚け。少しは驚いてくれや。
五百城を置いて教室に向かおうと、俺は階段を下りた。
だけど、狭い階段で五百城が、俺の前に立ちふさがった。
「……ねぇ、大西くん」
ふたりが向かい合う形だ。この配置は嫌だった。
ストーリーがはじまってしまう。
「なんで避けるの? 私のこと、嫌い?」
ほら、はじまった。
「……嫌いではない」
そう答える以外に手段はなかった。
「じゃあさ、なんで? 出会ってからずっと……」
「五百城を避けてるわけちゃう」
「避けてるじゃん」
五百城は下を向いた。泣いてはいない。ただ、顔は見えなかった。
俺は、しばらく何も言わなかった。いや、言葉が思いつかなかった。
そのうち廊下の向こうから誰かの話し声が聞こえてきた。
「……避けてへんって」
「本当に?」
「ほんまに」
五百城は口元に手をあて、視線を少し下に落とした。
「……そっか。うん。ありがとう」
小さく言った。
――ありがとう?
廊下の誰かたちの声が近づいてきた。
「私、先行くね。教室で待ってるから」
一瞬だけ俺の顔を見て、すぐに身を翻して走っていった。
これは、やばい。
不覚にも、その一瞬の笑顔に心臓が鳴った。
それだけはアカン。
どうする、俺?
何も思いつかなかった。
だが、このまま立っていると、次が来る。
紗奈が現れる。
そう思った瞬間、逃げないといけないのに、足が動かない。
震えていた。動けなかった。
「伊織~」
見つかったか?
ん? 声が太い。
松田やんけ。
「そんなところで、なにしてんだ?」
「……いや、屋上行こうかと。昨日、開いてたから」
「あ、やっぱり、あれお前か? 道着着てたしな。隣にいた奴だれ? 五百城? 白道着だったし」
おいおい、見てんなや。部活に集中しといてくれ。
「見間違いちゃうか?」
「いや、お前が道着姿の五百城の手を引いて、校内走ってたって聞いたぞ」
見られてたか。そりゃそうか。
「見間違いやろな」
「屋上で告白でもしたのかと思ったわ」
「会って数日で、それはないわ」
「そうか? 俺ならするぞ」
「お前と一緒にすんなや。俺はモブやで」
「そっか。ならいいや」
松田は、それだけ言って走っていった。
俺は、ひとつ大きく息を吐いて、教室に戻ろうとした。
「伊織~」
今度は、聞き覚えのある、いや、聞きなれている声だ。
「おはよ~」
紗奈が、俺の腕に絡みつこうとした。当然避けた。
「なんで避けるの?」
「むしろ、なんで絡んでくんの?」
いつもなら、ここから夫婦漫才が始まって終わる。いつもなら。
だが、この日は空気が変わった。紗奈が下を向いた。
「なんで避けるの? あたしのこと、嫌い?」
デジャブか?
同じ日に二人の女子に同じことを言われるとは……。
ん? 「わたし」でなく「あたし」?
分からないが、なんでもいいから返さないとダメな気がした。
「いや、嫌いならこの瞬間に攻撃魔法唱えとる」
自分が言っている言葉の意味も分からなかった。
「じゃあさ、なんでさっき避けたの?」
「避けてへんって」
「逃げたじゃん」
紗奈は、俺の腕を指さした。
なるほど、確かに逃げたかもな。
「あ、それな。すまん。逃げたわけちゃうねん」
素直に謝っておいた。
「じゃあ、なんで?」
しつこい。ヤモリの手よりも粘っこい。
「……普通に恥ずかしいやん? 一応男女やで?」
紗奈の顔が、パッと明るくなった。
「そっか、照れてるんだ?」
一瞬だけ、返答を考えた。
「そう、照れてんねん」
これが、最適の返しだと思った。
「じゃ、いいや。教室行こっ」
紗奈は、俺の腕に手を回さずに、一瞬だけ笑顔を見せてスカートを翻した。
やっぱりデジャブかよ。だが、今度は見惚れなかった。
何年も見てきた姿だ。
教室の前まで来ると、なぜか五百城が入口の横に立っていた。
「おはよ、美月」
「紗奈ちゃん、おはよう」
五百城はそれだけ言うと教室の中に入っていった。
それを確認して、俺も教室に入ろうとしたとき、紗奈が聞いてきた。
「美月ってほんっとカワイイ。伊織、好きになりそ?」
はぁ? なんや、その質問?
分からへん。分からなすぎる。だが、返答は一択だ。
「んなわけない。会って数日や。そもそも好かれるとも思えへん」
紗奈が俺の顔を見た。しばらく見た。
「……そだね。じゃね」
それだけ言って、笑顔で手を振って自分の教室へ戻っていった。
俺は席に座った。横から五百城が言ってきた。
「紗奈ちゃんってカワイイよね。私と違って、小さくて」
たしかに、五百城は顔は小さいが、背は高い。
「どやろか。俺、小さいの好みちゃうし」
俺は一体、誰に言ったんや?
始業のチャイムが鳴った。
五百城の口が、何かを言いかけた形のまま止まった。
――助かった。
そういうことにしておいた。




