第五話 屋上は閉まっている
昼休みが終わって、午後は頭の中が五百城のことでいっぱいだった。
色恋じゃない。
衝突を回避した俺に「逃げた」と言った。俺の名を知っていた。そのうえ、あまりにもスムーズな、紗奈との接触。
五百城は、先を知っている。
六時間目が終わった。
俺の妄想脳では、これが限界だった。
気にはなるけど、もう、気づいてないことにしよう。
終礼のあと、教室はいつもの音に戻っていく。椅子を引く音。鞄を閉める音。部活に行く男子の声。女子の笑い声。
松田はスポーツドリンクを持って、五百城にさわやかに挨拶をして、部活へと走って行った。
慎ましさというスキルが、あいつの身体には未実装らしい。
葛西はクラスメイト数名と帰った。廊下に出る前に、こちらを見てニヤっとした。
その顔、マジでやめろや。
五百城は隣の席で、ゆっくり帰り支度をしていた。
俺は鞄を持って立ち、五百城の方を向かずに、急いで廊下に出た。
背中から五百城の声がしたような気がしたけど、そのまま剣道場に向かった。
俺は剣道部のモブだ。弱くもなく強くもない。
レギュラーでも下手でもなく、ジャスト補欠だ。脳内映画でも、スポコンの主人公にはなれない。
剣道場は体育館の奥にあり、部室兼男子更衣室はさらにその奥にある。
俺は、部室で道着に着替えながら考えていた。
大和撫子の鉄板は、弓道部や薙刀部だ。
うちの高校には薙刀部はないし、弓道場は別の場所だ。
とりあえず、五百城がいなかった時の生活に戻ろう。
松田に任せればいい。
袴の紐を腰で縛って、校庭に出た。
袴姿で校庭をランニングする。
俺のルーティンだ。
走るのはいい。頭が空っぽになる。
ひとしきり汗をかいてから、竹刀に鍔を取り付けて、剣道場に入った。
うちの剣道部の人数は多くない。男女全学年合わせても、三〇人くらい。
道場から部員の話し声が聞こえる。
一礼をして、敷居をまたぐ。頭を正面に向ける。
そこには、白い道着、白い袴の五百城が立っていた。
……まさかの剣道部か。
身長は一六五センチくらい。腰が細い。
違う、そこじゃない。
逃げるために来た場所に、逃げたはずの五百城がいる。
意味が分からない。分からないまま、口が先に動いた。
「五百城、ちょっとええか?」
「なに?」
「少し話あんねん」
近くにいた女子剣士たちが、ほんの少しこちらを見た。その反応がもう嫌だった。俺は告白前の男子ではない。
「ここで?」
五百城が聞いてきた。
んなわけないやん。
これ以上、影響を広げたない。
「とりあえず、ここ以外」
空き教室はアカン。誰かに見られた瞬間、意味がついてまう。
図書室もアカン。人がおる。
校舎裏はもっとアカン。逃げ道あらへん。言い訳もない。
人のいない場所を探しているうちに、西階段まで来ていた。
その間、俺は何も話さなかった。五百城も黙って俺の後を付いてきていた。
三階の廊下は、放課後の匂いがした。紙とワックスと、遠くの部活の声。窓から入る光が、階段の手すりに細く乗っている。
三階の先には、屋上へ続く階段があった。
階段の前には、古い掲示が貼られていた。
『屋上立入禁止』
屋上は閉まっている。そこだけは信用できる――はず。
だが、俺は確かめたくなってしまった。
屋上へ行くためではない。
屋上の扉には鍵がかかっているはずだ。これが現実であるなら。
俺は階段を上がった。五百城も、何も言わずについてきた。
灰色の鉄扉と銀色のドアノブ、そこにかけられた『施錠中』の赤い札。
すばらしい。
俺はドアノブを回した。
扉を引いた。
ガチャリ
……なんなく開いてもた。
外から気持ちの良い乾いた空気が室内に入ってきた。
俺と五百城は、流れ込んできた風に引き寄せられるみたいに、屋上へ出た。
「……開いてたね」
五百城は俺を見上げた。そこで俺は気づいた。
ずっと、五百城の袖をつかんでいた。いや、袖ではない。手首だった。
……これは、アウトや。
すぐに手を離した。五百城は笑顔のまま、俺を見上げ続けている。
「それで、大西くん。話ってなに?」
「いや……それより、まずやな、なんで屋上が開いてんねん?」
五百城は俺の質問を受け流した。
「知らない。開いてるって知ってたんじゃないの?」
「……ちゃう。閉まっていることを確認しにきた」
五百城は少しだけ笑った。
「なんで?」
なんでや? なぜ俺は確認したかったんや?
答えられなかった。
俺は、五百城から視線を外した。屋上からは、校庭が見える。サッカー部が走っていた。たぶん、あの中に松田もいる。
「だから……なんで?」
五百城がわざわざ、俺の視界に入ってきた。俺は我慢できず、質問を質問で返した。
「五百城、なんか知ってるんよな? 未来とか?」
五百城はすぐには答えなかった。俺の視界から外れて、階段への扉に向かった。
ドアノブに手をかけて、俺の方を向いた。
「ううん。知らない」
俺は、一歩近づいた。
「ほな、なんでそないに落ち着いてんねん」
五百城は微動だにしない。
「俺、いきなり連れ回したんやで? 屋上、開いたんやで?」
俺の声が少し大きくなった。五百城は、ゆっくりと視線を落とした。
「……なんとなく、わかってた……感じ?」
その声は静かだった。
ドアを開けた。階段の下から、生徒の笑い声が聞こえた。俺は、その声が遠ざかるのを待った。
「なにが? なにがわかんねん?」
「あ、なるほど……って」
「意味わからへん。ちゃんと説明しぃや」
声を荒げたつもりはなかったが、五百城の肩が少し跳ねた。
「……そんなの、できたらしてるよ」
五百城は、そう言って、階段を駆け降りて行った。
俺は、閉まった扉の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
道場に戻って、五百城の前で稽古できる気がしなかった。
その日、俺は部活をサボった。




