第五十四話 ここからがはじまり
九月三度目の月曜日。校庭には、さっき上がったばかりの雨水がまだ捌けておらず、ところどころ、茶色の水たまりができていた。
昇降口は、少し汗ばんだ靴の匂いがした。
交わされる挨拶が、夏休みが来年まで来ないことを主張していた。
俺は、下駄箱の前で立ち止まった。
右手には、コンビニで買ったビニール傘。左手には、購買で売っている安い紙パックのカフェオレ。
そして、今まさに俺の正面で、女子が倒れかけている。
五百城だ。
肩のあたりまである髪が雨で少し濡れていて、手には折り畳み傘の袋を持っている。
昇降口に入ったところで、誰かの靴紐でも踏んだのか、身体がこちらへ傾いていた。
次にすることは決まっている。
俺は反射的に五百城を支えた。
五百城の手が俺の腕に触れる。
紙パックが潰れる。
カフェオレが制服に飛ぶ。
五百城が顔を上げる。
やたら綺麗な目。
「五百城、おはよう。ごめん。カフェオレ、飛んだ」
「うん、だいじょうぶ。すぐ洗えばとれるから」
五百城は、体勢を直して、自分で立った。
「もうだいじょうぶなんか?」
理由は聞かなかった。
「うん。寝てる時間多かったから、まだ少しふらついちゃうけど」
震えもなく、顔色は以前に戻っていた。
「今度は、避けないでくれたね」
「いやだって、五百城倒れるやん」
「そっか……そだね。ありがと」
何かが吹っ切れたような表情だった。
ふたりで教室に入っても、いつもと何も変わらない。
みんな、それぞれにグループを作って、それぞれに話をしている。
松田は、窓際で一軍メンバーとひときわ大きな声で話している。
五百城がふっと小さく息を吐いてから、上川に声をかけた。
「日菜子ちゃん、おはよう」
「あ、美月ちゃん、おはよう。だいじょうぶ? もういいの?」
五百城は、机に鞄を置いて、席に座りながら、言葉を返す。
「うん。ちょっと体調崩しちゃって――」
俺は自分の席に鞄を放り投げ、松田のところに向かった。
「伊織、美月ちゃん、どう?」
松田が先に聞いてきた。
「いや、なんか普通。ようわからへん」
「まぁ、戻ったんだからいいんじゃん?」
「上川とも普通に話してるしなぁ」
ホームルームが始まるまで、俺は松田と一緒に窓際から五百城を眺めていた。
ランチタイムになって、紗奈がやってきた。
「美月ー。良かったー」
紗奈が五百城に抱き着いた。五百城も軽く抱き返していた。
「ごめんね。連絡しようと思っても、なかなか体が起こせなくて」
嘘か本当か分からへん。
「もういいの。元気だったらそれでいい」
「うん。もう元気。ほんとごめんね」
松田が何冊かのノートを、五百城に渡した。
「海斗くん? これなに?」
「あ、二週間分のノート。勉強遅れるじゃん」
真面目だ。俺には見せるノートがない。
上川がその様子を横目に見ている。
「いーなー。わたしも休もかなー」
「上川が二週間休んだら、呼び出しちゃうか? 素行悪いから」
「ちょ、大西よりマシ」
「や、まず、その金髪おかしいやろ。なんで許されてんねん」
「え? キャラかな? 一年怒られ続けたら、言われなくなっちゃった」
上川は、わざとらしく舌を出した。
「ねぇ、そっちのクラス、文化祭の出し物決まった?」
紗奈が話題を変えた。
「え? まだ、早くない? 二ヶ月以上前だよ?」
「うちのクラスなんも話してへんな」
「その前に修学旅行あんじゃん」
松田がそう言うと、上川が目をキラキラさせて、頷いた。
「そうなんだけどねー。うちのクラス、演劇かコンカフェで揉めててさ」
「その二択、全然ちゃうやつやん。てか、コンカフェはアカンやろ」
「……あ、部活でも出店すんのか」
松田が思い出したように言った。
「え? そうなの?」
五百城がなぜか目を輝かせた。紗奈が五百城に説明した。
「うちの高校は、部活で屋台。クラスで出し物。参加するのはどっちかでいいって感じ」
「え、じゃあ、剣道部はなにするの?」
五百城が前のめりだ。俺が何か言うのを待っている。
「興味あらへん。どうせ両方サボタージュ」
小指を鼻に入れて言った。もはや誰も突っ込まない。
ちょっと恥ずかしい。
鼻から指を抜いて言った。
「まだ話も出てへんで。紗奈のクラスが早すぎやねん」
「そうなのかな? でも、ほら楽しみは長いほうがいいじゃん」
なんとも紗奈らしい。
上川が少し上目づかいで松田に聞いた。
「海斗くんは、どっち参加?」
「ネタによるかな」
「海斗くん、部活の方に行ったら、わたしひとりきりじゃん」
「あ、そか」
紗奈が横から割り込んだ。
「その時は、うちのクラスおいでー。一緒にやろー」
空気を読め。これは俺でも分かる。
「なんだか楽しみ」
五百城に笑顔が戻った。それを見て、俺は安心していた。きっと、紗奈も松田も上川も。
放課後になり、部活の前。いつものルーティン。そこに、いつもの中元。
「土曜はごめんな」
「いえ、スッキリできました。お付き合いありがとうございました。でも……」
「でも?」
「わたしは変わりません。今日も先輩をぶち抜きます」
中元は俺を置いて走り去っていった。少しずつ小さくなる背中が妙に大人っぽく感じた。
どうせすぐに後ろからやってくるが。
稽古でも五百城も中元も、普通だった。
ただひとつだけ違っていた。
帰るとき、服を着替えて部室から剣道場に戻った時、五百城が俺を待っていた。
「伊織くん、待ってた。一緒に帰ろ」
「あれ? 早くない?」
「うん。待たせるんじゃなくて待ちたかったから」
「紗奈は?」
「しばらく部活の居残りあるから、ふたりで帰ってって」
五百城の中で何かが変わった、いや、五百城が何かを変えた?
分からないまま、ふたりで並んで歩き出した。
俺と五百城の間にはちょうど十センチの隙間があった。




