第四十七話 ……紗奈?
夏休み最後の土日。やっと終わりが見える。
俺は、いつもの五人と草間の六人で野外フェスに来ている。
照りつける太陽と白い雲。その下、巨大なスピーカーが連なる黒いステージ。
同じTシャツ、同じタオル、色の違うリストバンド。汗をかいたペットボトルを握った人間が、芝生の見えないところまで詰まっている。
モブには一生縁のないはずの空間だ。
「オープニングはジー・クロ?」
いつものごとく、紗奈がはしゃいでいる。
「そうらしい。セトリはなんだろう。あれ? 茉莉花ちゃんたちは?」
松田がキョロキョロと見渡す。
「ふたりで回るって。だから、今日は四人だね」
「そうな。邪魔はようないな」
五百城は、にこにこと紗奈と松田の様子を眺めている。
俺は、帰りたい。
「なに、伊織? 元気ないよー」
「暑いねんて。紗奈が無理やり連れてきたんやん」
「だって、来てみたかったんだもん」
ため息しか出ない。
「朝五時起きやで。くそ暑いし、たまらんわ」
「そう言わないで、楽しもーよ」
紗奈が団扇で俺の顔をあおぐ。
「今度は、迷子にならないでね」
五百城が言ってきた。
「好きで迷子にならんがな」
「そだね。今日は離れないから」
「頼むわ。そうしてくれ」
五百城がにこやかだ。
来て良かったかもな、と思えたりもする。
ドンッ、ドドンッ
スピーカーからドラムスの爆音が鳴り出した。
客が一斉にステージに向かって走り出した。
「さぁ、いくよー。離れちゃだめだよー」
紗奈が、俺と五百城の間に入って、俺と五百城の腰に手を回した。
「ゴーッ!」
「わっ」
紗奈が走り出した。
「ちょっ待て。置いてくな」
松田が後からついてきた。
人の群れの中に突っ込んでいく。
次の瞬間、前後左右から凄まじい人の波が押し寄せた。
押されて、押して。
立っているのがやっとだ。
熱気でむせ返る空気の中、お互いの汗ばんだ肩や背中が激しくぶつかり合い、足元は自分の意思とは関係なく右へ左へと揺さぶられる。
ベースの重低音が、胸に響く。
気持ちいい。
紗奈が『超』がつく笑顔で飛び跳ねた。
五百城も「キャーキャー」言いながら笑っている。
松田は曲に乗りながら、紗奈と五百城のスペースを空けている。
こいつ、軽く惚れる。
曲がサビに入った瞬間、前の方で人の塊が割れた。
割れた、と思ったら、すぐにぶつかり合った。
他人の汗が、腕に付く。
これはいやだ。気持ち悪い。
ステージの上では、ボーカルが何か叫んでいる。
聞き取れない。
だけど、会場全体がそれに返事をしていた。
松田も叫んでいる。
とりあえず、俺も叫んでおく。
一組目が終わると、一旦、ステージが静かになり、人の波が芝生に戻っていく。
「これすげぇな、おい」
そう言っている俺は、たぶん笑顔だ。
「ねー、楽しいね」
紗奈も笑顔だ。汗で前髪が額にくっついている。
「ふたり、だいじょうぶ? 潰れてない?」
松田が紗奈と五百城を気遣う。
「うん。海斗くんのおかげ。ありがとう」
五百城の言葉に松田はご満悦だ。
「人、まじ、多すぎ」
「フェスだもん」
紗奈が首にかけたタオルで汗を拭いた。白いTシャツの袖が少し肩に張りついている。
「伊織くん、こっち! 次、私、好きなの。前行こう!」
「前?」
俺はステージの方を見た。すでに人の密度が明らかにおかしい。あそこだけ空気が圧縮されている。
「マジで?」
「マジで」
五百城が葛西の表情をしていた。
「よし、行こう。紗奈ちゃんと美月ちゃんは、俺の近くにおってな」
松田は楽しそうだ。紗奈はずっと笑顔だ。
ため息が出る。いい意味で。
「ほな、行こかー」
「ほな、行くでー!」
紗奈が下手くそな関西弁で叫んだ。
人の隙間を抜けて、ステージに近づいていく。足元の芝生は踏まれすぎて、ところどころ土が見えていた。誰かのペットボトルが転がり、スタッフがそれを拾って端へ投げる。
歓声が上がる。ステージの上でボーカルがマイクを握り、腕を上げた。一斉に腕が上がる。
「うわっ」
人がぶつかり合う。笑い声と叫び声が混ざる。横から誰かの肩がぶつかった。
揺れて押されて、紗奈の手が俺のTシャツの裾を掴んだ。俺も反射でその手首あたりを掴み返した。
紗奈の肩が俺の腕に当たった。離れたと思ったら、また当たる。髪が頬に触れた。汗と日焼け止めと、流れてくるキッチンカーの油の匂いが混ざっている。
足がもたついた。少し倒れそうだった。
後ろも人で埋まっている。右から押され、左から押され、前の誰かの背中にぶつかり、また戻される。
おかげで倒れないで済んだ。
「伊織? 一旦下がる?」
紗奈が叫んだ。
「こんなん下がられへんで!」
俺は叫びながら笑った。
「違う。顔色が……」
紗奈の眉が寄った。俺の言葉が出る前に、視界の端が白くなった。
「……あれ?」
紗奈の声がする。
………………
…………
……音が切れた。
目を開けるより先に、頭が重かった。
ぼーっとする中で、白い布の天井が見えた。
扇風機の低い音。消毒液みたいな匂い。遠くで音楽が鳴っている。
近くで、誰かが息を吐いた。
「起きた? 大丈夫?」
「……紗奈? あれ? 俺、どうした?」
少し時間が空いた。
「伊織くん、私、美月だよ」
慌てて体を起こした。声の方を向くと、五百城だった。
「……あ」
「うん」
髪が少し乱れている。頬に汗が残っていた。
「熱中症っぽい。海斗くんが、抱えてモッシュの外に出してくれた」
「……そういうことか。後で礼言わなあかんな」
もう一度、ベッドに寝た。その瞬間に、五百城が、違う方向を向いた。
「伊織! だいじょうぶ?!」
紗奈が入ってきた。手にはスポーツドリンクと、冷却シートの袋を持っている。後ろから松田も顔を出した。
「紗奈ちゃんたちがスタッフ呼びにいってる間に、別のスタッフさんが見つけてくれて、運んでくれたの」
「……そっかぁ、良かったぁ」
紗奈が胸をなで下ろした。
カーテンが勢いよく開いて、そのスタッフらしき人が入ってきた。
「あ、起きました? 彼氏さん、だいじょうぶそうですね」
五百城が何か返事しようとして、一度止めた。
紗奈が、俺ではなく五百城を見た。
「……はい。ありがとうございます」
五百城が答えた。
「一応、診察しますので、こちら来てください」
ん? 彼氏? 誰が?
五百城は、訂正しなかった。
「……今日ごめんな。ほんまありがとう」
俺はそう言って、診療室に連れていかれた。
初の野外フェス参戦は、二組だけしか聞けずに終わった。
その日からしばらく、紗奈からLINEが届くことはなかった。




