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第四十三話 二匹の金魚

花火当日の昼食後。俺はコーヒーを淹れながら、紗奈からのメッセージを見直していた。


〈十六時集合ね! 浴衣だよ!〉


……当日に無理言うなや。


親父は仕事が休みで、クーラーの下で寝転がってダラダラしていた。


「おとん、浴衣ないん?」


「あ?」


親父は、鼻に指を突っ込んだまま振り向いた。


「よいこらしょっと」


そのまま起きて、どこかに行った。


キッチンに立ったままコーヒーを飲んでいると、親父がリビングに戻ってきた。


「ほらよ」


浴衣と下駄だ。


「昔のやけどな。これ着たん、おかんとのデートやから二十年前のや」


今風のものとは違う、紺色の綿の浴衣だった。


「兵児(へこ)帯やから、ちょっとおぼこいけどな。ふわっと結んだら金魚みたいになんねん。おかんが好きやったんや」


話しながら、紙袋に詰めていった。


「羽織ればしまいやけど、ちゃんと着たいなら、紗奈ちゃんママに頼み。わし、無理や」


紙袋を俺に手渡し、親父はまたソファに寝転がった。


マグカップを流しに置いて、スマホを開いて紗奈にLINEを送った。


〈浴衣あってんけど、着られへん。親父が紗奈のおかんに頼めって〉


すぐに返信が来た。


〈いーよ。時間ないからすぐ来て〉


スマホを尻ポケットに入れて、紙袋を持った。


「おとん、サンキュー」


「きばってこいや」


「なぁ、おとん」


「なんや?」


親父は顔も向けずに返事した。


「なんで、おかん出ていったん?」


少しだけ間が空いた。


「……それ今聞くんか、おまえ」


親父はソファに座り直した。それでも、背中を向けたまま話しだした。


「わし、お前とはよう遊んだやろ?」


「せやな」


「そんとき、ねぇちゃんおらんかったろ?」


「せやな」


「そういうことや」


どういうことやねん……


「わからへんわ! なんやそれ」


声が大きくなった。


「なんでもええってこっちゃ。ええからはよ行け。紗奈ちゃん、待っとんで」


親父はまた寝転んだ。


釈然としないまま、紗奈の家に向かった。


だけど、チャイムを押す勇気がでない。スマホを開いてLINEを送った。


〈家の前、着いた〉


ガチャリと音がして、浴衣姿の紗奈が出てきた。


「なんでチャイム押さないの?」


「なんか恥ずいやん」


「なんでよ。早く入って。わたし、化粧も髪もまだやから」


紗奈に引っ張られて、家に入った。懐かしい匂いがした。


「おじゃまします」


声が小さくなった。


パタパタとスリッパの音がして、紗奈の母親が出てきた。


「あれ、伊織くん。男前になって。上がって上がって」


「あ、はい……」


「ママ、伊織お願いね。わたし化粧してくるから」


紗奈はそう言うと二階に上がっていった。


「すいません。自分で着れなくて」


「あら、いいのよ。お父さんに聞いてるし」


親父が? なんで知ってんだ?


「下はTシャツ? 肌襦袢?」


紙袋の中身を見ながら、聞いてきた。


「え? どういうことですか?」


「伊織くんのお父さんって、ああ見えて古風でね。浴衣着るときは、肌襦袢だったのよ」


笑いながら言う。


なんで、親父の昔を紗奈の母親が知ってるんだ?


「あ、ほな、俺も肌襦袢にします」


「よし。ほな、リビング上がって。早く早く」


紗奈の母親に急かされて、リビングに入った。


ほな? 関西弁?


リビングは、二年前とほとんど変わっていなかった。


ソファもテーブルもテレビも同じ。観葉植物だけが少し違う。


「はい、腕上げて。そのままキープね」


言われるがままに浴衣を着せられた。


ふわふわの長い帯を腰に巻かれ、背中に大きな結び目を作られた。


「うん、我ながら上出来。かわいい金魚ができたね」


ポンっと背中を叩かれた。


「ありがとうございます」


俺は軽く頭を下げた。


「伊織くん、お父さんに似てきたねぇ。あんなにいかつくないけど」


紗奈の母親が俺の顔を見て笑った。


俺は意を決した。


「……あの……おとんと昔、知り合いだったんですか?」


紗奈の母親は驚きもせずに答えた。


「あら。お父さんから聞いてない?」


「なにも。この浴衣は、おかんとのデートで着たってくらい」


「あっら〜、まぁ」


紗奈の母親は、一度大きく笑って、それから小声になって言った。


「おばさんとお父さんね、幼馴染だったのよ」


勝手に口が半分開いた。


「紗奈には内緒ね。パパに言いそうだから」


紗奈の母親はそう言って、人差し指を軽く口元に当てた。


「紗奈ー! 早くしなさいよ。伊織くん、終わったよ」


二階から声が聞こえる。


「はーい。今いくー」


バタバタと階段を降りる音がして、俺の目の前に浴衣姿の紗奈が現れた。


「あら、我が娘ながらかわいいわ」


紗奈の母親はそう言うと、俺の手を引き、紗奈の隣に並ばせた。


「あー。ふたりとも、もうかわいい。写真撮るから、そのまま待ってて」


スマホを取りに別の部屋に走っていった。


「相変わらず騒がしいでしょ」


紗奈が肩をすくめて笑った。


「や、なんか安心するわ」


「どう? 浴衣。ママのお下がり」


「あん?」


一歩下がって、紗奈を見た。


流行りの色ではない、黒地に桃色の浴衣が、紗奈の雰囲気に合っていた。


「似合(にお)てんちゃう? 大人っぽいで」


「でっしょー」


紗奈が笑顔でくるりと回った。その背中で、赤と白が混ざった兵児帯が、ふわりと揺れた。


紗奈の母親が戻ってきた。


「あら、離れちゃってるじゃない。ほら、もっとくっついて」


また、無理やりふたりを横に並べた。紗奈と顔を合わせて笑った。


その瞬間、シャッター音が聞こえた。


「あんたらが一番のカップルやわ。きばって行ってきなさい」


そう言って見送られた。


「なぁ、紗奈のおかんて、大阪出身なん?」


「ううん。東京って言ってた。なんで?」


「や、別に。そか。そうやんな」


たぶん嘘だと思いながら、十センチだけ隙間を空けて、ふたり並んで花火会場に向かった。


「後ろから見たら、金魚が並んで泳いでるみたいやんな」


「そだね」


紗奈は俺を少し見上げて、小さく笑った。


夏の夕方の風に、俺と紗奈の兵児帯が、同じ方へふわりと揺れた。


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