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第三十六話 初めての海水浴

朝起きて、カーテンを開けた。願いむなしく、今日も晴天だった。


楽しみだったことも、当日に行きたくなくなることもある。


モブの俺にとって海水浴など、人生初イベントだ。


リビングに行くと、親父がソファーに座ってコーヒーを飲んでいた。


「お、伊織、おはよう」


「おとん、今日早いな。なんでや?」


俺はコーヒーサーバーからマグカップにコーヒーを注いだ。


「おまえ、今日、友達と海いくんやろ?」


コーヒーを飲みながら答えた。


「せやで。水着貸してーや」


親父が、何か入った袋を投げてきた。


反射的に受け取ってしまった。


「それ、開き」


袋を開けて中身を取り出すと、新しいトランクス水着だった。


「は? なんでや?」


「なんでもくそもあるかいな。おまえ、男やろ。カッコつけーや」


サーフTシャツにビーチサンダルまで入っていた。


「俺、まだ誕生日ちゃうで」


「おまえはあほか。よう聞け。高校の夏は、三回しかないんや。お前はもう、一回無駄にしとんねん」


「なにを名言ぽいこと言うてんねんな」


「茶化すな。一日も無駄にすんな。以上。はよ行け」


親父はテレビをつけて、ソファに横になり、朝のニュースを観だした。


「わかった。おおきにな」


親父は黙って手を上げた。


服を着替えて、駅に向かった。


当然、俺以外の四人は先に駅に着いていた。


四人とも「ザ・夏の高校生」の格好をしていた。


「伊織、遅いよ」


紗奈が言う。ふと松田を見ると大きな棒を持っている。


「松田、それなに?」


「パラソル。必要っしょ」


それを担いで持って行こうとするあたり、松田らしい。


「あれ、伊織くん、それ水着じゃない?」


葛西の突っ込みだ。


「せや。向こうで着替えるんめんどいやん」


「帰りどうするの?」


「そのまま帰る。俺は困らない」


葛西が笑った。


「伊織くんは、どこまで行っても大西くんだね」


「なんやそれ」


紗奈と五百城が合わせて笑った。


海岸までは、快速に乗って二駅。そこから歩いて二〇分。


観光客がいるわけでもなく、小さな海の家が一軒あるだけの砂浜だ。


砂浜に入ると早速、松田がパラソルを開いた。


女子三人は、更衣室へ着替えに行った。


「しっかし、海に来たはいいけど、海ってなにすんだろな?」


松田が聞いてきた。


「知らんやん。俺は、これが初めての海水浴や」


「マジか? って、俺も家族以外とは初めてかも。夏は部活しかしてなかったし」


「今のうちに聞いとくけど、お前、まだ五百城のこと意識してんの?」


松田は一瞬、何かを言いかけて止めた。


「……そうだな。意識してないって言ったら嘘になるな」


「そか。ほな良かったわ」


「良かった? なにが?」


「いや、なんていうか、その方がお前っぽいやん」


松田が笑った。大げさに笑った。


「そんなセリフ、伊織に言われると思わんかったわ」


でも、急に真顔になって、聞いてきた。


「で、お前は、どうなんよ。もう毎日、美月ちゃんと一緒だろ?」


俺は少し黙った。自分でも分からなかった。


「一緒いうても、部活やからなぁ。今んとこ、なんもないなぁ」


嘘をついておいた。


正直、恋愛感情が分からない。


好きとか嫌いとか、そんなことを言えるやつらがうらやましい。


どこかに何かを置いてきてしまったような気がした。


「お待たせー」


紗奈の声だ。声のする方向を向いた。


女子三人の水着姿に、目のやり場が――困らない。


全く困らないんだ。


「それ水着なん?」


一番聞きやすい紗奈に聞いた。手にレンタルの浮き輪を持っていた。


「そうだよ」


「スカートにTシャツと変わらへんやん」


紗奈が少し自慢げな顔をしながら、全身を見せてきた。


「期待してたならごめんだけど、さすがに肌は見せらんないわ」


葛西はワンピース、五百城は薄手のパーカーにショートパンツ。


「うっは、モブの楽しみ奪うなや」


奪われて安心した。


これで水着姿からのドキドキフラグはやってこない。


まず一つはクリアだ。


松田が立てたパラソルの下に各々がシートを開いて座った。


「さ、なにしよ?」


紗奈が言った。言い出しっぺがノープランか。


「私、友達と海水浴とか初めてだから、来れただけで楽しい」


五百城が笑った。俺と同類だった。


最近の五百城の笑顔には、含みが減ってきた気がする。


「とりあえず、浮き輪で浮いて、ちょっと泳いで、ビーチバレーして、伊織くんを砂に埋めたらいいんじゃない?」


葛西よ、最後のは何だ?


「じゃ、いこ!」


紗奈が立ち上がって、一歩先に出た。皆が続いた。


俺は動かなかった。


「あれ? 伊織泳がないの」


「俺? 荷物番しとく」


「なんでー。貴重品はロッカーだし、だいじょうぶ」


「おいおい、紗奈。忘れたか」


「なに?」


「俺は、泳がれへん」


紗奈が「あ」の口のまま固まった。


「伊織くんって、泳げないの? 運動神経悪くないじゃん」


葛西が立ち上がって、尻についた砂を払いながら聞いてきた。


「せやねんなー。全くってわけちゃうけど、まぁ、泳げんのやな」


紗奈が少し申し訳なさそうな顔をした。


「そういえば、伊織とプールにも海に行ったことないかも」


「俺はいいから楽しんできーや。海水浴ボッチはモブの好物や」


そこに五百城が入ってきた。


「じゃあ、私も伊織くんと待ってようかな。砂の中に埋めとくね」


葛西のノリが移ってんじゃねーか。


「それなら――」


紗奈がまた何かを言い出そうとした。俺は言葉を被せた。


「や、まじでええねんって。気使われる方がしんどいわ」


俺は葛西を見た。今だけは、お前を信用している。伝われ。


「――だってさ。いこ!」


葛西がふたりの手を引いて、海の方に走っていった。松田がそれを追いかける。


一瞬止まって、俺の方を振り向いた。


「おまえ、引率やでー」


俺のその言葉に、松田は親指を見せて、三人に続いて海に入っていった。


ひとつの浮き輪に一緒に掴まっている女子三人。その横で、見守る上半身裸のデカい日焼けした男。


「俺、また青春見せられてんな……」


部活でも海でも。その端の方に、必ず五百城がいる。


なにか仕組まれているような気がして、楽しさと嬉しさを素直に受け入れられない。


太陽の痛い日差しだけが、今が現実なのだと分からせてくれていた。

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