第三十二話 おかえり、松田
「あっついなぁ」
「あついねぇ」
このところ、ときどき紗奈が、朝迎えに来る。
ふたりで登校することが増えてきた。
葛西が変なことを言うから意識してしまう。
「あんな、ちょっと聞いてええか?」
「いいよ、なに?」
「怒らへん?」
「内容次第」
紗奈が笑った。
「ほな、言わへん。怒られるのは怖い」
「なんでよ。言ってよ」
少し躊躇した。紗奈が俺の言葉を期待している。いつもなら、この期待の逆をする。
だけど、今は変に逃げてしまうと、また何かが起こりそうで逃げられない。
「いや、なんで迎えにくるんかな、と」
「え~、そんだけ?」
「そんだけ」
「期待して損した」
何を期待してたんや?
「伊織と一緒に学校行きたいからに決まってんじゃん」
それは質問の答えになってへんで。
「なに? 照れてんの? 噂になるとか?」
「うーん。そういうわけでもないけど、シンプルに。紗奈になんの得があんねん」
紗奈は少し考えた。少しだけ真面目な顔になった。
「そーだね。松田くんと伊織の影響かなぁ」
「まったくわからへん」
「松田くんはいつでも一生懸命で。伊織は普段ふざけてるけど、やるときはやるし……」
やめろ。モブを神聖化するな。
「わたしも、一生懸命になろうかなって」
「朝迎えに来るのと何の関係あんねん?」
「んー、ナイショかな」
ナイショてなんやねん。
「まぁ、いいや。話戻すわ」
「あ、松田くんのことね」
「なんか案ある?」
「んー、たぶん、ね」
「なんやねんそれ」
「……ナイショかな」
「なんや、またナイショかいな」
紗奈が笑った。こいつの笑顔は安心する。
中元や五百城の笑顔は、受けると刺さる。
その日のランチタイム。相変わらずの四人組。
モブの俺にとっては、地獄のハーレムタイム。
五百城のためでなく、自分のために松田を戻したい。
「はい! 提案があります!」
紗奈が口火を切った。
なぜか敬語で。
「なんでしょう! 紗奈さま!」
俺は最近、葛西のノリを気に入っている。
「みんな、下の名で呼び合いましょう!」
「「「ん?」」」
三人が紗奈を見た。
「ほら、そろそろ夏休み。わたしはみんなで遊びたい。もっと仲良くなりたい」
「や、おまえ、松田以外、全員下の名前で呼んでるやん」
「ちがうの。わたしだけじゃだめ。みんなで仲良くなる」
三人が顔を互いに見合わせた。
「えー。わたしが大西くんを、伊織くんって呼ぶってこと?」
葛西が嫌そうな顔をして聞いた。
「そう!」
「なんで?」
「なんかさ、一部だけで名前で呼び合ってたら、そこだけ特別な感じするじゃん」
なるほど。確かに。
「だから、みんな一緒。みんな特別。どう?」
「紗奈ちゃんっぽいね」
葛西が笑った。五百城も微笑んだ。紗奈がチラリと窓側を見た。
「わたし、西宮紗奈」
紗奈は、そう声を張って、葛西に手を掲げた。
これはもう完全に学園ドラマの流れだ。
なぜ、お前らはみんなドラマを演じるんだ。
「わたし、葛西茉莉花」
葛西が五百城に手を掲げた。
「私、五百城美月です」
細いけど通る声で言った。
そして、五百城は俺に手を掲げた。
ここからの流れは完璧に読める。
答えたくない。逃げたい。避けたい。
避けると、それが五百城に向かう。
くそっ。
負けだ。ここは負けだ。
「俺は、大西伊織」
負けるが勝ちだ。
俺は、窓際の松田に向かって手を掲げた。
三人も松田の方を向いた。
「松田!」
松田が振り向いた。だけど、半分口が開いて固まっている。
そりゃそうだ。
「次、お前! はよしてや。手がしんどい」
紗奈が俺に向かって音のない小さな拍手をしている。
松田の仲間たちが、松田の背中を押している。
あいつ、愛されてんな。
「俺、松田海斗、次期キャプテン!」
松田は、一度だけ窓の外を見た。
それから、笑ってこちらに向かってきた。
「海斗くん、おかえり」
葛西が言った。
紗奈が松田とハイタッチした。
五百城が俺に目配せして、少し微笑んだ。
「松田を名前で呼ぶのは、何よりも照れるな」
「俺は、名字を呼ぶ方が苦手だけどな」
「こないだは、悪かったな」
「いや、悪いのはこっちだ」
松田と軽く握手した。
紗奈が泣いていた。
「良かった~。せっかく仲良くなったのに、わたし……」
リス顔の葛西が、紗奈の頭を撫でていた。
顔面的には、役目、逆だろ。
「でも、ちゃんづけはいややな。葛西さ、茉莉花ちゃんって、どうよ?」
「キモイ。それなら、茉莉花の方がまし」
みんなが泣いて笑っている。
それを、五百城が静かに眺めている。
なんやこれ?
俺は、いったい何を見させられてんねや?
その日は、頭の中がまとまらないまま、残りの時間を過ごした。
部活終わりに剣道場の前で五百城と紗奈を待っていると、五百城がふとお礼を言ってきた。
「伊織くん、ありがとう」
一瞬、胸が鳴った。
このヒロイン級の顔に、下の名前を呼ばれるとは。
「下の名前って、照れるな」
「そうだよね。でも、伊織くんも私のこと名前で呼んでよ」
断りたいのに断れない。
五人の関係は壊せない。
俺はこれまで、ひとりだったから逃げてこられたのか。
「……み、美月」
五百城が俺を見て微笑んだ。
「はい」
目に吸い込まれる。俺は顔を背けた。
「照れないでよ」
「照れるやろ」
「そこは、海斗くん見習おうよ」
「あれは、主役やから。俺はモブ。むり」
五百城は、一瞬だけ間を置いた。
「伊織くん、モブなんかじゃないんだよ」
「あん?」
俺と五百城の間に、紗奈が後ろから、笑いながら入ってきた。
「ふたりで、なにをいちゃついてんの~」
「いちゃついてへん。下の名前が照れるって話や」
「あ、そうね。でも、いい案だったでしょ」
「せやな。さすがやで」
紗奈が満面の笑みになった。高校に入ってから、初めて見たかもしれない。
ふたりでハイタッチをした。
「ふたり、やっぱり仲いいね」
「そうか? そやな」
俺と紗奈は顔を合わせて笑った。
五百城も笑った。
だけど、その瞳の中に、少しだけ曇りを感じたような気がした。




