第十二話 小指から握れ
素振りくらいならできると思っていた。病院へ行くまでは。
額の傷は大したことなかった。それでも一週間は、運動を控えるように言われた。
去年の俺なら、何も考えることなく、部活を休んだ。
放課後、家に帰ろうと廊下に出ると、五百城が教室の少し先にいた。
松田と話している。
「美月ちゃん、部活終わるの何時くらい?」
「日によるかな?」
「じゃ、剣道場の前で待ってるから、駅まで一緒に――」
俺は逆方向に歩き、遠回りして剣道場に向かった。
怪我の報告をしようと、教官室に入った。
顧問の先生は、俺の額を見るなり言った。
「大西? お前のことだから休むと思ってた」
失礼な先生だ。まぁ、その予想はあっている。
「はい。休もうと思ってました」
「じゃあ、何しに来たんだ?」
「なにかできることがあればと思って……」
先生は、目と口を半開きにして固まった。
よく見ると、呼吸に合わせて鼻の穴が動いていた。
「……病院は行ったんだな」
「行きました」
先生は腕を組んで考え出した。
「お前はふざけてるからなぁ」
それは独り言か? 丸聞こえやで。
「筋トレも素振りもまだダメだろ」
「そうですね」
「……あ、じゃあ新入部員を見とけ」
「指導……ですか?」
「お前、剣道だけは真面目だからな」
「……はぁ」
俺は先生に一礼し、部室に向かった。
制服のまま剣道場にいると、居場所がない。部活に来ているのに、部活の中には入れていない。
面倒だが、道着に着替えた。
道場ではもう準備運動が始まっていた。
五百城もその列に入っていた。
普通に動いている。普通に声を出している。
そりゃそうやな。
部活やからな。
準備運動が終わり、素振りが始まる。
五百城の竹刀が上がる。
俺は竹刀を振れない。
五百城は、たしかに初心者ではない。二年半やってきただけのことはある。
体は細いのに、竹刀を上げた前腕には、しっかりとした筋が出ていた。
俺は黙って見ていた。
何かを言う立場でもない。
耳の横から、顧問の声が聞こえた。
「大西! どこ突っ立ってんだ! 一年はこっちだ!」
「あ、すんません」
襟を軽くつかまれ、新入生の列に動かされた。
五百城は、こちらをチラッと見て少し笑った。
つられて俺も笑った。
新入生と言っても、男子はほとんどが経験者で、俺が教えることなんてない。
俺よりこいつらの方が上手いかも。
女子の方を見た。三人だけ。
うん。これはひどいな。
三年が抜けたら、五百城もレギュラー確定だ。
「先生! これ、どこから見たらいいんですか?」
声を張って顧問に聞いた。
「は? お前、今まで何見てた?」
なに見てた? 毎日、普通に稽古してただけ。
あれ? 新入部員って、いつ入ったっけ?
「まぁいい。女子は全員初心者だから、基礎の基礎から教えてくれ」
「了解しました」
俺は四月からの記憶を辿った。
部活をサボったのは一日だけ。あと昨日。
それ以外に、新入部員イベントはなかった。
……いや、あった。
五百城が入部した日か。五百城しか見てへんかった。
納得した。
仕方ない。
竹刀の握り方から、教えることにした。
「えーと、さすがに竹刀の持ち方は聞いてるやんね?」
「「「はい」」」
「ほな、ま、ちょっと素振りしてみてよ」
三人が思い思いに、それなりの素振りをした。
「あ、えっと……」
剣道は便利だ。垂れに名前が書いてる。
だけど、この子たちにはまだ防具が与えられてなかった。
俺は道着の肩に入った刺繍を盗み見た。
「中元さん?」
「はい」
「人差し指と親指で握ったらあかんねん」
中元は、自分の手元に目をやり、いろいろ握り方を模索した。
「あー、えーと、そうちゃうねん……」
俺は中元の隣に立ち、中元の左手を開き、竹刀を置いた。中元は俺の顔を見た。
「俺じゃなくて竹刀見て」
そう言って、中元の小指から順に竹刀を握らせた。
「こうやって、小指から上に握って、人差し指は添えるだけ」
中元が不思議そうな顔をしている。
「おけ?」
「……はい」
「ほな、これで振ってみ」
中元の前方で、竹刀が空気を割く音がした。
「お、やるやん。そうそう。これで続けて」
中元が音を聞いて笑って、一瞬俺を見て笑って、また正面を向いて素振りを続けた。
俺は視線を五百城に移した。
五百城は正座して、手ぬぐいを頭に巻いていた。
目が合った。五百城が微笑んだ。
俺はまた視線を一年たちに戻した。
部活が終わり、着替えて、帰ろうとした。
自分の匂いを嗅ぐ。防具をつけてないから臭くない。
部室を出ると、目の前をさっきの一年たちが帰っていくところだった。
「大西先輩! ご指導ありがとうございました!」
三人に頭を下げられた。悪い気はしなかった。照れた。
「や、先輩てやめてや。なんかこっぱずかしいわ」
笑ってごまかした。
「ほな、また明日な」
三人に手を振り、自分の帰路についた。
「お疲れ様でしたー!」
後ろから明るい声が聞こえた。振り向いた。
中元だ。あの顔はきっと次女や。完全な妹顔や。俺の偏見や。
「はーい。おつかれー」と言うと、次のお兄ちゃんフラグになる。
だから俺は、右手だけあげて、振り向きもせずに歩いた。
校門をくぐろうとした時、後ろから軽く走ってくる足音が聞こえた。
この音を無視し続けた。
音はどんどん近づき、ついに肩を叩かれた。仕方なく振り向いた。五百城だった。
息が切れている。頬が赤い。
「……はぁはぁ、ちょっと待ってよ。なんで先帰るの?」
「え? いつも一緒ちゃうやん」
「そうだけどさ、仲良くなりたいって言ったでしょ」
「それ、紗奈とちゃうのん?」
「紗奈ちゃんも入れて、三人で!」
松田も葛西も入っていない。
俺は、そこに少しの優越感を感じていた。




