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第十話 屋上には出なかった

「あの、痛い……んだけど」


しばらく紗奈の手首を握りっぱなしだった。


「あ、ごめん……悪い」


その手を離した。紗奈は、俺の指が当たっていたところを軽くさすった。


「なに? 美月にここで待てって言われたんでしょ?」


「そうやけど……」


「じゃあ、待ってればいいじゃん。わたし行くから」


そう言って紗奈が階段を降りようとする。


「ちゃうねんって」


足が、勝手に半歩だけ前に出た。


「待てって」


「だから、なに?」


紗奈が振り返る。少しだけ眉を寄せていた。


「……紗奈に謝れって、五百城が」


「なんなの、ほんと。誰かに言われなきゃ謝ることもできないの?」


紗奈がため息を吐いた。俺は、反論を言いかけて、止めた。


「じゃね。早くしないと一時間目に遅れちゃう」


紗奈がスカートを(ひるがえ)して、階段を一歩降りた。


思わず、紗奈の腕に手が伸びた。


降りようとする紗奈のバランスが崩れて、階段から落ちそうになった。


俺はとっさに紗奈の腕を引いて、体ごと引き戻そうとした。


ここで俺は紗奈を抱きしめてしまい、恋するフラグが発動――しなかった。


次の瞬間、俺の足が段を踏み外したからだ。


俺と紗奈は、ほとんど絡まったまま、二、三段下まで落ちた。


「……いったぁ」


俺の体の上に紗奈が乗っていた。


「ちょっと、だいじょうぶ?」


紗奈が慌てた表情で俺を見ている。


スカートがまくれていることにでも気づいたんか?


だいじょうぶや。そんなん見る余裕はない。


「あぁ、だいじょうぶ。すまん、紗奈はだいじょうぶか?」


額のあたりを少し打ったようだった。


手で触る。


ぬるっ。


ぬるっ?


その手を見た。赤い液体だった。


「ちょっと! 保健室行こう!」


紗奈は、ポケットからハンカチを取り出して、俺の額に当てた。


「や、ハンカチ汚れる……」


「ちょっと……ばか? ハンカチなんてどうでもいいよ。早く保健室……」


紗奈が必死に俺の腕を自分の肩に回して、俺を立たせようとする。


いや、お前の筋力では無理やろ。


「ありがとう。自分で立てるよ」


俺は自分で立ち上がり、紗奈のハンカチで自分の額を押さえた。


額が切れると、傷の大きさの割に血の量は多いものだ。


これくらいの血なら大したことはない。


だけど、紗奈が心配そうに俺を眺めている。


「だいじょうぶやって。ちょっと保健室行ってくるわ。紗奈は、先生に鍵開いてたって言わなあかんねやろ?」


そう言って、空いている方の手で、紗奈の肩を軽く叩いた。


「……うん」


俺は、階段を降りて、保健室に向かった。


数秒して、紗奈の足音が聞こえた。職員室に向かったのだろう。


保健室に入ると、名物先生が――いるわけもない。


五〇歳くらいのおばさん先生だ。


「あらら? どおしたの~?」


保健室の先生は、なぜ語尾が伸びるんだろう。うちの先生だけだろうか。


「さっき、階段から落ちました」


「頭ぶつけたの~?」


「どうやら、そのようです」


俺がハンカチをどかすと、先生が俺の額をマジマジと見た。


濡れた綿で血を拭きとった後、傷口の周りを押したり、さすったり。なにしてんの?


「縫うほどでもなさそうね。ちゃんと圧迫してたから、もう血も止まりかけてるし」


うん。そうやと思う。


「吐き気は~? ふらつきは~? 目、ぼやけたりしない~?」


語尾がうざい。


「大丈夫です」


「じゃあ、今日は体育は見学ね。授業中に気持ち悪くなったらすぐ来なさい」


「はい」


「傷口を閉じるテープを貼っておくね。お家にはこっちから連絡しておくから。授業終わったら、念のため病院に行っておきなさい」


「あ、ふらつく。病院……早退……」


「そういう冗談はやめなさい」


「……はい」


保健室を出ると、そこに紗奈が待っていた。


「……本当にだいじょうぶ?」


額に貼られた創傷閉鎖テープをマジマジと見て言ってきた。


「紗奈は、どっか痛ない? ほんと、ごめん。俺、さっき完全に――」


「ううん。わたしは平気」


人通りの少ない保健室の扉の前で、ふたり向き合って黙って立っていた。


「……一時間目は? 始まってるんちゃうん?」


「だって心配だったし。先生も様子見に行けって」


なるほど。


「ま、いいや。ありがとう。教室戻ろか」


「……うん」


ふたり並んで廊下を歩いた。


不自然なほどにゆっくりと。


言葉はなかった。


教室のある校舎に着き、階段を上がる時、ポケットから血が染みたハンカチを出した。


「紗奈、これ洗って返すから。今日はほんとにごめんな」


「そんなのいいよ。わたしの方こそごめん」


「いや、今日は完全に俺が悪い。紗奈に怪我させるところやったし」


「でも、伊織が……」


紗奈が俺を見上げている。その目は潤んでいる。涙が今にもこぼれ落ちそうだ。


「あとさ……」


「……なに?」


「こないだは、ごめん。嫌だったわけちゃうねん。ただ、申し訳なくて」


俺は頭を下げた。自分の足先が見えた。


「うん。でも、きっと、伊織わかってない」


「なにが?」


「弁当いらないって言われたことじゃなくて、申し訳ないって思われていることが嫌なんだよ?」


紗奈が潤んだ目のまま、また、しかめっ面になった。


ただ、本当に俺は「分かっていなかった」。


「でも、わたしも悪かった。自分を押し付けた。伊織の気持ち考えてなかった」


「……」


言葉を探す俺を見て、紗奈のしかめっ面がため息交じりの笑顔に変わった。


「だからさ、おあいこにしない? 伊織は自分でパンを買う。だけど、ランチは一緒。どう?」


「せやな」


俺も笑顔になった。


紗奈が手を上げた。その手に俺がハイタッチした。


そのあと、紗奈が自分の教室に向かう姿をしばらく見続けた。


廊下にひとりになった。


額に貼られたテープが、少しだけ引きつる。


屋上は開いていた。


でも、屋上には出なかった。


それなのに、紗奈に謝って仲直りした。


同じ結果に流された気がした。


授業をする先生の声が、廊下の向こうから少しだけ聞こえていた。


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