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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第9話

 宰相邸は、エリナの想像より大きかった。


 王都の中心部から少し外れた場所に建つその邸は、高い石塀に囲まれており、正門から玄関までの道だけで相当な距離があった。左右に手入れされた並木が続き、その奥に三階建ての石造りの建物が見えた。装飾は控えめだが、造りはしっかりしている。見栄えより機能を重視した建物だと、一目でわかった。


 馬車が玄関前に止まると、使用人たちが列を作って出迎えた。


 十数人。それぞれが礼儀正しく頭を下げた。エリナも軽く頭を下げ返しながら、一人ひとりの顔を順番に見た。


 全員の名前を、覚えなければならない。


 それはエリナが自分に課したことだった。使用人の名前を覚えることは、礼節の基本だと父から教わっていた。人数が多くても、それは変わらない。


「こちらが侍女頭のマルタです」


 フィンが紹介した。


 四十代半ばの女性だった。髪を厳しく束ね、背筋が伸びており、エリナをまっすぐ見ていた。愛想はなかったが、馴れ馴れしくもなかった。


「マルタです。ご不便のないよう努めます」


 短く言った。言葉は丁寧だが、目が笑っていなかった。


 エリナはそれを気にしないことにした。



 案内された客間は広く、清潔だった。


 窓から庭が見えた。噴水があり、石造りのベンチが置いてあった。よく手入れされた庭だった。


 マルタが荷解きを手伝いながら、邸の説明をした。食事の時間。使用人への連絡の方法。執務棟への行き方。


 エリナは聞きながら、部屋の中を見渡した。


 調度品は上質だった。しかしところどころ、何かが欠けているような空白がある。棚の上に何もない場所。壁にかけられた絵の横の、何もない釘。まるで、そこに何かがあって、それが取り除かれたような。


 聞くべきか迷ったが、やめた。まだ来たばかりだ。


「マルタさん」


 荷解きが一段落したとき、エリナは言った。


「今日紹介していただいた使用人の方々のお名前を、改めて教えていただけますか。順番に」


 マルタが少し眉を上げた。


「……全員でございますか」


「はい。顔と一緒に覚えたいので」


 マルタは一瞬だけ間を置いてから、名前を順に挙げ始めた。エリナは繰り返しながら、頭の中に顔と結びつけていった。



 翌朝から、エリナは挨拶を始めた。


 廊下で会う使用人に、名前で声をかけた。厨房に顔を出して、料理人のヴィクトルに食事の好みを聞いた。庭師のエドガーには、噴水のそばの植物の名前を教えてもらった。


 マルタはそれを少し離れたところから見ていた。


 三日目の朝、廊下で若い侍女がお盆を落とした。磁器の小皿が一枚割れた。侍女が青ざめて謝る中、エリナはしゃがんで一緒に破片を拾い、「怪我はない?」と聞いた。


 そのとき、マルタがそばにいた。


 何も言わなかったが、その日の夕方、エリナの部屋に温かいお茶を持ってきた。頼んでいないお茶だった。


「お気遣いありがとうございます、マルタさん」


 エリナが言うと、マルタは短く頷いた。


「お口に合えばよいのですが」


 それだけだった。でも、最初の日と比べると、目の色が少し違った。



 四日目の夜、エリナは一人で邸の中を歩いた。


 昼間には気づかなかった場所を確かめたかった。廊下の突き当たり。階段の踊り場。書庫の隣の小部屋。


 二階の廊下を歩いていたとき、壁に掛かった肖像画の前で足が止まった。


 縦長の、大きな絵だった。


 若い女性が描かれていた。薄い金色の髪。穏やかな目。口元に、人を安心させるような微笑みを浮かべている。背景は暗く、女性だけが柔らかな光の中に浮かんでいた。


 エリナはしばらくその絵を見た。


 名前は知らなかったが、誰かはわかった。


 棚の空白。壁の釘。邸のあちこちにある、取り除かれた何かの跡。そういったものが、今この瞬間、一つに繋がった。


 この邸はまだ、誰かを待っているのかもしれない。


 エリナはそっと絵から視線を外して、廊下を戻った。


 自分の部屋に帰り着いて、明かりをつけて、机に座った。


 ここにいる意味を考えた。代わりにはなれない。なろうとも思わない。それでも、何かができるとしたら、それは何だろう。


 答えはまだなかった。


 ただ、焦らなくていいと思った。始まったばかりだから。


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