第10話
仮婚約、という形をアレクが提案したのは、邸に着いて二日目のことだった。
執務棟の小会議室に呼ばれ、向かい合って座ったエリナに、アレクは書類を一枚差し出した。
「半年間の仮婚約期間を設けたい」
書類には、その条件が簡潔に記されていた。エリナが政務補佐として執務に加わり、その間に双方の適性を確認する。期間終了後、改めて正式婚約を結ぶかどうかを両者が判断する。
「もし期間中に、この婚約を望まないと判断した場合は、いつでも申し出ていい。その場合の帰還については、私が責任を持つ」
感情のない声で言った。
エリナは書類を一読した。言葉は正確で、曖昧な部分がなかった。逃げ道を最初から用意している、ということでもある。
「承知しました」
エリナは書類を返した。
「ただ、一つ確認させてください。この期間中、私は対等な補佐として扱われると理解してよいですか。意見を出すことも、資料を参照することも、自由に」
「そのつもりで呼んだ」
「では、問題ありません」
アレクは短く頷いた。
エリナはそれを、気楽だと思った。
補佐業務が始まったのは翌日からだった。
アレクの執務室は、宰相邸の執務棟の一番奥にある。広い部屋だったが、窓が小さく、午前中は薄暗かった。壁一面の棚に書類と書物が詰まっており、大きな机の上はさらに書類で埋まっていた。
フィンが小さな机を一つ、執務室の隅に用意してくれた。
「狭くてすみません。閣下はあまり人を入れない部屋なので」
「いいえ、十分です」
エリナは机に座り、まず目の前の書類の山を見渡した。
ここから、何をすればいいか。
特に指示はなかった。アレクはすでに自分の仕事に向かっていた。エリナは少し考えてから、書類を手に取り始めた。
どんな種類のものがあるか。何が懸案になっているか。それをまず把握しなければ、何も助けられない。
午前中いっぱいかけて、エリナは書類の分類を終えた。
種類は大きく四つ。各地方からの報告書。他国との往来文書。国内の法令案。そして、未決のまま積み上がっている懸案事項の覚書。
懸案の覚書の中に、一つ気になるものがあった。
隣国テルダとの通商条約の草案だった。内容を読み進めるうちに、エリナは数字の齟齬に気づいた。条約本文では関税率を「現行比十五パーセント減」としているが、附則の計算表では「現行比十二パーセント減」で試算されていた。
三パーセントの差。金額にすれば小さくないはずだ。
エリナは計算を確認した。間違いなかった。
「宰相閣下」
アレクが顔を上げた。
「テルダとの条約草案ですが、本文と附則の数字が食い違っています。本文が十五パーセント減、附則が十二パーセント減で計算されています。どちらが正しい数字でしょうか」
アレクが立ち上がり、エリナの机まで来た。書類を受け取り、両方を見比べた。
沈黙が数秒続いた。
「……本文が誤りだ。十二パーセントが正しい」
静かに言った。
「では、本文を訂正する必要があります。草案を起こした担当者にも確認を取った方がいいかもしれません。他に同じ誤りが入り込んでいる可能性があるので」
アレクはエリナを見た。
何かを測るような目ではなかった。ただ、見た。
「訂正しておく」
短く言い、書類を自分の机に持っていった。
それだけだった。
その日の夕方、フィンが執務室に顔を出したとき、机の上の書類の配置が整理されていることに気づいたらしく、目を丸くした。
「エリナ様、これ全部今日中に……?」
「分類しただけです。まだ内容は半分も把握できていません」
「いや、それでも、ここが整理されているのを初めて見ました」
フィンが感心した様子で言うのを、アレクが横目で見た。
「フィン、余計なことを言うな」
「いえ、事実を申し上げているだけで」
「うるさい」
「はい」
フィンが素直に黙った。
エリナは内心、少し笑いそうになった。この二人のやりとりには、独特のリズムがある。
窓の外が夕暮れ色になっていた。
初めての補佐業務は、思ったより自然に流れた。何かを認められたとか、受け入れられたとか、そういう実感はまだない。でも、この机でできることがあると、それはわかった。
仮婚約でいい、とエリナは思った。
半年で十分だ。それだけあれば、自分がここで何者になれるか、見えてくるはずだから。




