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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第11話

 マルタがその話をしてくれたのは、エリナが邸に来て二週間ほど経ったころだった。


 きっかけは、エリナが肖像画のことを聞いたからではなかった。


 午後、廊下を歩いていたエリナは、二階の突き当たりの部屋の前で立ち止まった。扉が少し開いていた。中を覗くつもりはなかったが、差し込む光の角度で、部屋の奥に何かが見えた。


 大きな窓。窓辺の椅子。椅子の上に、たたんだままの薄い毛布。


 それだけだったが、人の気配がした。今いる誰かの気配ではなく、かつてここにいた誰かの。


 後ろから足音がして、振り返るとマルタだった。


「失礼しました、のぞくつもりはなかったのですが」


「いいえ」


 マルタは静かに扉を閉めた。しばらく沈黙が続いた。


「……先夫人のお部屋でございます」


 マルタが言った。声が、いつもより低かった。



「ジュリア様とおっしゃいました」


 マルタは廊下の窓の外を見ながら、ゆっくりと話した。


「三年前に、病でお亡くなりになりました。肺を患われて、二年ほど闘われましたが……最後は穏やかでいらっしゃいました」


「そうでしたか」


「お美しい方でした。賢くて、誰に対しても分け隔てなく。使用人にもいつも気を配ってくださって……」


 マルタの声が、わずかに揺れた。


 エリナは黙って聞いた。


「閣下は、大変長い間立ち直れませんでした。ジュリア様が亡くなってから一年ほどは、邸に人を呼ばれなかった。執務は続けられましたが、食事をとられないことも多くて。フィン様がとても心配されていて……」


 マルタは少し間を置いた。


「今でも、ジュリア様のことを深く想っていらっしゃると思います。邸の誰もが、そう感じています」


 エリナは頷いた。


「教えてくださってありがとうございます、マルタさん」


 マルタが初めてエリナをまっすぐ見た。


「失礼なことを申し上げているかもしれません。でも、知らずにいるよりはと思いまして」


「いいえ、知れてよかったです」


 エリナは本当にそう思った。



 その夜、エリナは部屋の鏡の前に座って、自分の顔を見た。


 嫉妬があるかと、正直に問うた。


 少しはある、と思った。会ったこともない人を羨ましいと思う気持ちが、完全にないとは言えなかった。ジュリアという人は、邸の誰もが慕っていた。アレクが三年経っても手放せない記憶を持っている。そういう人間と無意識に比べられているのだとしたら——。


 でも、嫉妬より切なさの方が大きかった。


 アレクのことを思った。あの硬い表情の下に、三年間抱えてきたものがある。誰も部屋に入れなかった一年間がある。それを聞いてしまった今、この人の「感情を使わない」顔が、少し違って見えた。


 感情がないのではない。


 感情を、どこかにしまっているのだ。


 私は代わりではない、とエリナは思った。代わりになれるとも思わないし、なろうとも思わない。ジュリアという人がアレクにとって何だったか、それはエリナには触れられない領域だ。


 ただ。


 エリナはゆっくりと目を閉じた。


 それでも、この邸で自分にできることをしていく、とは思えた。ジュリアの代わりとしてではなく、エリナ・ヴォルフォードとして。


 それが、今の自分にできる唯一のことだった。



 翌朝、廊下で二階の肖像画の前を通ったとき、エリナは足を止めた。


 昼間に見ると、絵の印象が少し変わった。夜よりも穏やかな光が差し込んでいて、女性の表情が柔らかく見えた。


 エリナはその絵に、小さく頭を下げた。


 挨拶のつもりだった。あなたの場所に来ました、という。侵略ではなく、ただここにいますという。


 それから顔を上げて、執務棟へ歩いた。


 今日もやることがある。それだけで、十分だった。


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