第12話
ガルタ王国の使者が来たのは、六月の半ばのことだった。
ガルタはランドールの南東に位置する小国で、山地の鉱山資源を主な産業とする。国としての規模は小さいが、特定の鉱物の産出量では大陸でも上位に入る。今回の訪問は、採掘権の更新交渉が目的だった。
使者の名前はベルト・コンラッド。四十代の男で、体格がよく、声が大きかった。
正式な会議は翌日の予定だったが、当日の午前中に先方から「非公式に情報交換をしたい」という申し出があり、アレクが小会議室で対応することになった。エリナも同席した。
最初の三十分は問題なく進んだ。
ところが途中、アレクに急使が来た。別件の緊急報告だという。
「少し席を外す」
アレクがエリナに短く告げ、部屋を出た。
残ったのはエリナと、コンラッド使者と、ランドール側の書記官が一人。
アレクがいなくなった途端、コンラッドの態度が変わった。
あからさまではなかった。ただ、話す声のトーンが上がり、目線がエリナをほとんど見なくなった。書記官に向かって話し、エリナを視界の外に置くような振る舞いになった。
「宰相閣下がお戻りになるまでに、いくつか確認しておきたいことがあるのだが」
書記官に向かって言いながら、コンラッドは書類を広げた。
エリナは静かに見ていた。
書類の内容は、採掘権の更新条件についてだった。ガルタ側が提示している数字は、現行契約より大幅にランドールに不利な内容だった。非公式の場で先に書記官を丸め込んでおこうという意図が透けて見えた。
「失礼ですが」
エリナが口を開いた。
コンラッドが初めてエリナを見た。面倒そうな顔だった。
「現在ご提示の条件ですが、百十七年前のハーマン条約に照らすと、いくつか問題がある点があります」
「……ハーマン条約?」
「両国間の鉱物資源に関する最初の取り決めです。その第四条に、採掘権の更新条件の基準が定められています。今回のご提示はその基準を下回っている箇所があります」
コンラッドがわずかに顔をこわばらせた。
「宰相の婚約者殿が、条約の細かい話を」
「はい」
エリナは微笑んだ。感情のない、礼儀正しい笑顔で。
「政務補佐として同席しておりますので。もちろん、明日の正式な会議でアレク宰相閣下からも改めてご説明があると思いますが、せっかくですので今確認しておいた方がよろしいかと思いまして」
コンラッドが黙った。
「ハーマン条約の第四条の具体的な内容についてご説明しましょうか。資料でしたらこちらにございます」
エリナは手元の書類束から一枚を取り出した。今朝、念のために持参していたものだった。
コンラッドはそれを受け取り、しばらく黙って見た。
アレクが戻ってきたのは、十五分ほど後だった。
部屋の空気が変わっているのを、すぐに察したようだった。コンラッドはもとの礼儀正しい態度に戻っており、エリナは静かに手元の書類を整えていた。
会議はその後、特に波乱なく終わった。
使者が退席してから、アレクがエリナに目を向けた。
「何かあったか」
「いいえ、特には」
横でフィンが何か言いたそうにしていた。
翌日の正式会議の後、ガルタ側は当初の提示条件をいくつか修正して再提示してきた。エリナは何も言わなかったが、フィンがこっそり「あの使者、昨日エリナ様に何かされましたか」と聞いてきた。
「少し確認をしただけです」
「閣下に報告しました。昨日の件」
「フィンさん」
「だって僕、書記官から聞いてしまって。閣下は無表情のままで、でも聞き終えてから」
フィンが少し嬉しそうな顔で続けた。
「よくやった、って言ったんですよ。閣下が。あんな言葉、僕、初めて聞きました」
エリナは少し目を丸くした。
「……そうですか」
「閣下があんなこと言うの、本当に初めてなんです。信じてもらえないかもしれないですけど」
フィンが真剣な顔で言うので、エリナは思わず小さく笑った。
「信じますよ」
廊下の窓から、夏の光が差し込んでいた。
よくやった。
その四文字が、思ったより長く、胸の中に残った。




