第8話
ヴァロア王国とランドール王国の国境は、なだらかな丘陵地帯にある。
特別な関所があるわけではない。街道沿いに石造りの小さな詰所があり、通行の記録をつける係の男が二人いるだけだった。馬車が止まり、書類の確認が行われ、それが終わるとまた進んだ。
たったそれだけのことで、国が変わった。
エリナは窓の外を見た。景色は大して変わらなかった。丘と木と空。同じように続いている。それでも、これがランドール王国だと思うと、胸の中で何かが静かに動いた。
怖い、というより——もう引き返せない、という確かさだった。
馬車の中には、三人いた。
エリナ。アレク。そして、アレクの従弟であり側近のフィン・ランドールだ。
フィンは三十歳で、アレクとは対照的に愛嬌のある顔をしていた。茶色い巻き毛で、目元に笑いじわがある。馬車に乗り込んだときから、場の空気を和ませようとしているのが見えた。
しかしその努力は、なかなか報われなかった。
「ランドールの春は短いんですよ。あっという間に夏になる。エリナ様は暑さは大丈夫ですか」
「はい、問題ありません」
「それはよかった。閣下は暑さが苦手で、毎年夏になると顔が険しくなるんです」
アレクが一瞥した。フィンは気にせず続けた。
「王都の市場は活気があって面白いですよ。お時間があれば案内します。魚料理が特に美味しい店を知っていて——」
「フィン」
アレクが短く言った。
「うるさい」
「あ、はい。失礼しました」
フィンが素直に黙った。車内が静かになった。
エリナは窓の外を向いたまま、小さく息をついた。
話しかけてくれる気持ちはありがたかった。ただ、正直なところ、今はあまり喋りたくなかった。景色を見ながら、静かに頭を整理したかった。
その意味では、アレクの一言は助かった。
昼を過ぎても、馬車の中の沈黙は続いた。
フィンは時折、外の景色に何か言おうとしては、アレクの気配を感じて止まる、ということを繰り返していた。エリナはそれをなんとなく察知して、内心少し申し訳なく思った。
アレクは書類を読んでいた。
ずっと読んでいた。馬車に揺られながら、目が書類の上を動いていた。エリナは盗み見るように、その横顔を観察した。
集中しているときの顔は、こういう顔なのか、と思った。眉間に薄く線が入る。口が一文字に閉じる。視線が細くなる。感情が出ていないのではなく、感情を使っていない、というのが正確な気がした。
この人は今、仕事のことを考えている。それだけだ。
エリナには、それが理解できた。自分も似たような集中の仕方をすることがあったから。
嫌な沈黙ではないかもしれない、と思い始めたのは、夕方に近いころだった。
宿に着いたのは、日が傾いてからだった。
街道沿いの、小さいが清潔な宿だった。夕食は宿の食堂でとることになった。長机にフィンも加わった三人で、シチューとパンと野菜の炒め物が運ばれてきた。
フィンが懲りずに話しかけてきた。
「エリナ様は、ランドールに来るのは初めてですか」
「はい、初めてです」
「どんな印象ですか、今のところ」
「空が広いと思いました。ヴァロアより、丘が低いからでしょうか」
「そうかもしれませんね。北に行くほど山が出てきますけど、王都のあたりはわりと平らで」
フィンが嬉しそうに話す横で、アレクは無言で食事をしていた。
少しして、アレクが不意に口を開いた。
フィンでも、エリナでもなく、テーブルの一点を見たまま、独り言のような口調で。
「あなたには政務補佐の経験がある」
エリナはスプーンを持ったまま、アレクの方を向いた。
「先日の商談でも、的確な指摘だった。ランドールの政務は規模が違うが、基本的な構造は変わらない。期待している」
感情のない言葉だった。
褒めているのか、確認しているのか、それとも単なる情報の整理なのか、判別しにくかった。
でも、エリナには誠実に聞こえた。
この人は、お世辞を言わない。言葉を飾らない。そのまま伝える。だからこの「期待している」は、本当に期待しているということだ。
「よろしくお願いします、宰相閣下」
エリナは静かに答えた。
アレクは頷いた。それだけだった。
フィンがエリナとアレクを交互に見て、何か言いたそうな顔をしたが、今度は自分から黙った。
夕食の後、部屋に戻ったエリナは窓を開けた。
夜のランドールの空気は、ヴァロアよりすこし乾いていた。星が多かった。
明日の朝には、王都に着く。宰相邸に入る。新しい生活が始まる。
怖いかと自分に問うと、怖いと思った。
でも今夜の食卓で、この人は自分を「必要な人間」として見ているとわかった。婚約者の飾りとしてではなく、機能する人間として。
それは——少なくとも、悪い始まりではなかった。
エリナは窓を閉めて、明かりを消した。
ランドールの最初の夜が、静かに更けていった。




