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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第7話

 出発の前夜、エリナは自室の荷造りを一人でした。


 侍女のイネスが手伝いを申し出たが、断った。最後の夜くらい、一人でいたかった。ランプの灯りの下で、棚や引き出しの中身を一つひとつ確かめながら、必要なものと不要なものに分けていった。


 連れていくものは思ったより少なかった。


 衣服は数着。書物は厳選した十冊ほど。父から譲られた政務の参考書が数冊。母の形見の小さなブローチ。それだけで、トランクはまだ半分も埋まらなかった。


 残りは、この部屋に置いていく。


 棚の端に、子どものころ読んでいた冒険譚の本が並んでいた。婚約が決まってから棚の奥にしまわれたものを、先週引っ張り出してきたのだ。ほこりを払って、表紙を撫でた。懐かしい感触だった。


 これは置いていこう、と思った。いつか帰ってきたときに読めばいい。


 そう考えてから、少し止まった。


 帰ってくる、という言葉が頭に浮かんだのが、意外だった。ここを離れることは理解していたが、帰れる場所として残るとは、あまり考えていなかった。でも確かに、ここは実家だ。どこへ行っても、それは変わらない。


 少しだけ、肩の力が抜けた。



 夜も更けてから、母が部屋に来た。


 ノックの後に入ってきたカトリーヌは、目が赤かった。昨日も泣いていたのかもしれない。手に温かい飲み物を持っていて、エリナの机の上に置いた。


「荷造りは終わった?」


「ほとんど」


「少なすぎない? もっと持っていきなさい。向こうで必要なものが——」


「お母様、大丈夫です」


 エリナは母を見た。


「向こうでも買えます。足りなければ送ってもらえばいい」


 母は唇を噛んだ。泣くまいとしているのがわかった。


「……あの男は、信用できる人なの」


「父が長年取引してきた相手です。それだけは確かです」


「でも、顔も知らない方のところへ——」


「顔は知っています。商談で会いました」


「一度しか会っていないじゃない」


「そうですね」


 エリナは正直に答えた。


「でも、私の言葉を正面から受け取ってくれた人でした。それは、わかりました」


 母はしばらく黙っていた。それからそっとエリナのそばに来て、髪を一度だけ撫でた。母の手の感触は、子どものころから変わらなかった。


「幸せになりなさい」


 声が少し震えていた。


「どんな形でも、お前が幸せでいることが大事なの。それだけよ」


 エリナは頷いた。声が出なかった。


 母が部屋を出た後、机の上の飲み物を両手で包んだ。温かかった。



 翌朝は、よく晴れた。


 アレクの迎えの馬車が門の前に着いたのは朝の早い時間だった。荷物を積み込む間、父と母が玄関先に立っていた。使用人たちも何人か出てきて、静かに見送ってくれた。


 父がエリナの前に立った。


 何か言おうとして、やめた。それからもう一度口を開こうとして、また止まった。父がそういう顔をするのを、エリナは初めて見た。いつも言葉を選ぶ人が、言葉を見つけられずにいる。


 父はエリナをぎゅっと抱きしめた。


 大きな手が、背中にまわった。子どものころ、ひどく転んだときに抱きしめてもらったのと同じ感触だった。エリナは目を閉じた。


「どこにいても、お前はヴォルフォード公爵の誇りだ」


 低い声が、耳のそばで言った。


 エリナは父の背に手をあてて、一度だけしっかりと握った。


「行ってきます」



 馬車に乗り込もうとしたとき、使用人の一人が走り寄ってきた。


「お嬢様、先ほど届いた手紙がございます」


 差し出された封書を受け取った。


 差出人の名前を見た瞬間、手が止まった。


 クロード・レイン。


 王家の紋章の封蝋が押されていた。手紙の大きさは小さく、中身は多くないようだった。


 エリナはしばらく、その封書を見つめた。


 開けようとした。指が封蝋に触れた。


 でも、開けなかった。


 今この朝に、あの舞踏会の夜に戻る必要はないと思った。この手紙が何を書いていても、それがエリナの今日を変えることはない。変えてはいけない。


 エリナは馬車に乗り込み、御者台の後ろの荷台に手荷物を渡しながら、その封書だけは手元に持ったままでいた。


 邸の中に戻って棚の上に置いた。


 それから何も言わずに馬車に戻り、扉を閉めた。


 馬車が動き出した。窓から、小さくなっていく両親の姿が見えた。母が手を振っていた。父は動かなかったが、ずっとこちらを見ていた。


 門を出ると、実家の姿が見えなくなった。


 エリナは窓から目を離し、正面を向いた。


 膝の上に置いた手を、静かに重ねた。


 長い旅が始まる。


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