第6話
しばらく、沈黙が続いた。
エリナは窓の外を見た。庭の木が風に揺れていた。父は何も急かさなかった。
「……求婚、ということですか」
ようやく言葉が出た。
「そういうことになる」
「突然すぎます」
「そうだな」
「初対面です。今日、初めて会いました」
「そうだな」
父の返事が短すぎて、エリナは思わず父の顔を見た。父は穏やかな顔をしていた。否定も肯定もしていない。ただ、聞いている。
「……閣下は、どういうつもりで」
「それはわからない。ただ、彼が無駄な行動を取る人間ではないことは、長年の付き合いでわかっている。何か考えがあってのことだろう」
「宰相夫人が必要だということでしょうか。政略的な意味で」
「かもしれない。あるいは、今日のお前を見て、単純に必要だと思ったのかもしれない」
エリナは黙った。
頭の中を、いくつかの考えが行き来した。
私はまだ、傷の癒えていない身だ。婚約破棄されてから一ヶ月も経っていない。隣国の宰相のもとへ嫁ぐということが何を意味するか、今の自分に判断できる気がしない。
それに、あの目が怖かった。怖い、というより——見透かされているような感じが、落ち着かなかった。
「断ります」
エリナは言った。
「今すぐには、無理です」
「わかった」
父はあっさりと頷いた。
「ただ、一つだけ聞いてもいいか」
「はい」
「断るとして、その理由は何だ。傷が癒えていないから、か。それとも、別の理由があるか」
エリナは少し考えた。
「……今の私には、誰かの婚約者になることを、自分の意志で選ぶ準備ができていない、と思います」
「では、準備ができれば、選べるかもしれないと」
エリナは口を開きかけて、止まった。
父は続けた。
「お前の才能を必要としている人間がいる。婚約破棄されたことで、お前の価値は何も変わっていない。それだけは覚えておいてほしい」
エリナは父を見た。父の目は真剣だった。
「お前が決めることだ。ただ、三日だけ考えてみてくれ。それからでも断るのは遅くない」
エリナは静かに頷いた。
三日間、エリナはよく眠れなかった。
ランドール王国について、改めて調べた。地理。政治体制。宰相の職務範囲。アレク・ランドールという人物の経歴。
三十二歳。十年前に宰相職に就き、以来ランドール王国の政務を一手に担っている。前国王の信任を受け、現国王にも厚く信頼されている。対外交渉において強硬と柔軟を使い分ける手腕で知られる。三年前に妻を病で亡くし、再婚はしていない。
子はいない。
政務補佐として有能な妻を必要としているなら、確かに条件は理解できた。
ただそれだけで、見ず知らずの他国の男のもとへ行けるかといえば。
二日目の夜、エリナはベッドの中でじっと天井を見ながら考えた。
ここに残ることを想像してみた。ヴォルフォード邸に居続け、社交の場に出て、いつか別の縁談が来るのを待つ。あるいは来なくてもいい。それでも生きていける。
でも、それは——何かを待つだけの日々だ。
ランドールに行くことを想像した。知らない国。知らない邸。知らない人間関係。あの目の男の隣で、政務を補佐する。
怖かった。でも、何かがあった。あの商談の場で、発言を拾われたときの感覚。「それは正しい見立てだ」という、感情のない、しかし誠実な言葉。
誰かに必要とされるということの感触が、そこにはあった。
婚約者としてではなく、考える人間として。
三日目の朝、エリナは書斎へ行った。
父は机に向かっていた。エリナが入ると、ペンを置いて顔を上げた。
「答えが出たか」
「はい」
エリナは父の前に立った。
「条件付きで、承諾します」
父が少し目を見開いた。
「条件とは」
「互いに尊重し合う、対等な婚姻であること。私の意見を、政務の場で正式に扱ってもらえること。そして——感情の強制はしないこと。愛情の有無に関わらず、礼節を持って接すること」
言いながら、エリナは自分の声が落ち着いていることに少し驚いた。
「ランドール宰相がその条件を受け入れるかどうかは、わかりません。でも、それを確認しないまま行くつもりはありません」
父はしばらく無言でエリナを見ていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「伝えよう。おそらく彼は、受け入れると思う」
「なぜそう思うのですか」
「あの男は、不誠実な約束をしない」
エリナは少し考えてから、もう一度頷いた。
「では、お願いします」
そう言ってから、自分が思ったより緊張していないことに気づいた。
怖くないわけではない。でも、これは自分で選んだ。それだけが、今は確かだった。
返事はその週のうちに来た。
アレクからの書状は短かった。
「条件、承諾します。詳細は直接お会いした際に。来月、改めて伺います」
それだけだった。
エリナは書状を二度読んで、折り畳んで机の引き出しにしまった。
窓の外では、もう初夏の空になっていた。




