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あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


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第5話

 アレク・ランドールが訪ねてきたのは、五月の初めの晴れた午前のことだった。


 事前に父から聞いていた通り、視察の途中に立ち寄るという形だった。随行は少なく、馬車二台と護衛が数名。宰相の来訪にしては簡素だとエリナは思った。それが、この人物の性質を表しているような気もした。


 応接間に通された客人を、エリナは扉の外からひと目見た。


 三十二歳。長身で、肩幅がある。黒に近い濃い茶色の髪は短く整えられ、服装は上質だが装飾を嫌う質素さがあった。座っているのに背筋が伸びている。手元に書類を広げ、父と何事かを確認していた。


 笑っていなかった。表情がない、というより、無駄な表情を使わない人間に見えた。


 エリナは静かに扉を開けて入った。



「娘のエリナです。本日はよろしくお願いいたします」


 礼をしながら顔を上げると、アレクの視線がまっすぐこちらを向いていた。


 射抜かれるような、という表現が頭に浮かんだ。


 感情を測るような目ではなかった。ただ、見る。それだけの目だった。しかしその「見る」の圧が、エリナがこれまで会った誰とも違った。クロードの柔らかな目とも、貴族たちの値踏みするような目とも。


「アレク・ランドールです」


 短く言った。声は低く、穏やかだった。


 それだけで、また書類に視線を戻した。


 エリナは父の隣に座り、商談の続きに耳を傾けた。



 話の内容は、北部の穀物流通に関するものだった。


 ランドール王国は山がちな地形で、南部の平野から穀物を仕入れる必要がある。ヴォルフォード家は南部の複数の農地と取引があり、安定した供給を担ってきた。今回の議題は、来年の契約更新と、新たに加わる輸送ルートの調整だった。


 エリナは聞きながら、事前に調べた資料を頭の中で照合していた。


 話が輸送コストの見積もりに差し掛かったとき、エリナは気づいたことがあった。少し迷ったが、口を開いた。


「失礼ですが、一点よろしいでしょうか」


 アレクが顔を上げた。父も。


「現在のルートは、春と秋の増水期に川渡りが難しくなる区間があります。昨年の秋、実際に二週間の遅延が出ました。来年の契約に、遅延リスクへの対応条項を入れておいた方が、双方にとって安心ではないかと思いまして」


 父が少し驚いたような顔をした。それは想定外の発言への驚きではなく、どちらかというと「よく知っていたな」という顔だった。


 アレクは、しばらくエリナを見ていた。


 何も言わなかった。ただ、じっと見ていた。


 それからゆっくりと視線を書類に戻し、一箇所に指を当てた。


「それは正しい見立てだ」


 短く、感情のない声で言った。


「対応条項については持ち帰って検討する。提案してほしい文面があれば、書いておいてくれ」


 エリナは静かに頷いた。


「承知しました」



 商談は昼前に終わった。


 アレクは長居をしなかった。父と握手を交わし、エリナにも軽く頭を下げた。使用人が荷物を運び出し、護衛たちが馬の用意をした。


 エリナは玄関先で見送りに立っていた。


 馬車に乗り込む直前、アレクが立ち止まった。


 振り返り、父の方へ近づいた。そして、二人の距離が縮まったとき、周囲には聞こえない声で何かを言った。


 エリナには聞こえなかった。


 父の表情が、わずかに変わった。驚きとも、考え込む顔とも取れる表情。しかしすぐに元に戻り、短く何かを答えた。


 アレクは頷き、馬車に乗った。


 蹄の音が遠ざかっていく。


 エリナは父の横に立って、馬車が門を出るのを見ていた。


「父上、宰相閣下と何を話されたんですか」


 少し間があった。


「後で話す」


 父の声は、いつもより慎重だった。



 昼食の後、また書斎に呼ばれた。


 父は机の前に座り、エリナが椅子に落ち着くのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。


「アレク・ランドール宰相から、お前のことを聞かれた」


「私のことを?」


「婚約破棄の件は、彼も知っていた。その上で——お前はどういう人間かと」


 エリナは少し眉を寄せた。


「私が政務の補佐をしていたことは、取引の書類からも分かる。今日の商談でのお前の発言も、彼は評価していたようだ」


「それだけではないでしょう」


 父は小さく笑った。


「そうだな。それだけではない」


 一呼吸置いてから、父は言った。


「お嬢さんを、ランドールにいただけませんか、と言っていた」


 エリナは、しばらく何も言えなかった。


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