第4話
婚約破棄から十日後、王家からの使者が来た。
使者は四十がらみの男で、仕立てのいい外套を着ていた。王妃付きの侍従だと名乗った。ヴォルフォード公爵家の応接間に通され、正面のソファに父と並んで座ったエリナは、その男の表情を静かに観察した。
愛想のいい笑みを浮かべてはいるが、目が笑っていない。
用件はすぐに語られた。
「このたびのクロード殿下のご発言につきましては、王家として大変遺憾に思っております。ソフィア王妃陛下より、ヴォルフォード公爵家への謝罪の言葉をお伝えするようにと、このような次第でございまして」
侍従は文書を一枚取り出した。折り畳まれた上等な紙に、王家の封蝋が押されていた。父がそれを受け取り、広げて読んだ。エリナも横から目を通した。
丁寧な言葉で書かれていた。「殿下の軽率な振る舞い」「ヴォルフォード家への深い敬意」「今後とも変わらぬ関係を望む」。
どこにも、本心はなかった。
「お気持ちは受け取りました」
父が静かに言った。
「ただ、改めてお伺いしたいのですが、この度の件についての王家の正式な見解はどうなりますか。クロード殿下の婚約解消は、殿下個人のご意志によるものと理解してよろしいですか」
侍従の笑みが、わずかに揺らいだ。
「はい、あくまで殿下のご意志でございます。王家として何かを強いたわけでは、一切——」
「では、リリア・テイン嬢との婚約については」
「それはまだ正式に発表されたものではなく……」
「そうですか」
父は文書をきれいに折り畳み、テーブルに置いた。
「承知しました。エリナ、何か聞きたいことはあるか」
突然自分に話が振られ、エリナは少し驚いたが、すぐに侍従に視線を向けた。
「一点だけ」
エリナは言った。
「ヴォルフォード家として今後いかなる行動をとるかについては、家として慎重に判断すると父からお伝えください。ソフィア王妃陛下にも、直接そのようにお伝えいただければ幸いです」
侍従の表情が、わずかに固くなった。
「……畏まりました。必ず王妃陛下にお伝えいたします」
使者が帰った後、父とエリナは応接間に二人残った。
父は窓の外を見ながら、静かに茶を一口飲んだ。
「気づいたか」
「はい」
エリナは答えた。
「謝罪文の中に、補償の話が一切ありませんでした。公爵家の令嬢を長年婚約者として拘束しておきながら、正式な補償もなく、王家としての説明もない。それは、最初から謝罪が目的ではないということです」
「では、目的は」
「様子見、でしょうか。ヴォルフォード家が怒っているかどうか。抗議に出るつもりがあるかどうか。そして——」
エリナは少し考えた。
「もし私たちが騒ぎ立てれば、何らかの形で不利益が生じると、言外に伝えに来た」
父が小さく頷いた。
「その通りだ」
「最初から、クロード様個人の気持ちだけで動いたわけではないのでしょう」
言いながら、エリナは胸の中で何かが静かに確定していくのを感じた。
ソフィア王妃が、この婚約破棄を望んでいた。理由はわからない。政略的な判断か、別の縁談があるのか、あるいは単純にエリナが気に入らなかったのか。どれかはまだわからない。しかし王妃が黒幕であることは、ほぼ間違いないと思った。
クロードは、流されたのだ。
その事実は、不思議と怒りより悲しみに近い感情を呼んだ。
あの人は昔から、そういう人だった。波風を立てることが苦手で、強い意志を持つ人間の前ではつい引いてしまう。それがエリナへの婚約破棄という形で出た。それだけのことだ。
恨む気にはなれなかった。ただ——やはり、愛していなかったのだと、改めて思った。
「エリナ」
父が言った。
「王家に対して何もするなとは言わない。ただ、タイミングと方法は慎重に選んだほうがいい。今は嵐が過ぎるのを待つべき時だ」
「わかっています」
「それと、もう一つ」
父が少し声のトーンを変えた。
「アレク・ランドール宰相の来訪は、来月の初めになった。お前に同席してもらうつもりでいる。準備しておいてくれ」
エリナは頷いた。
「ランドールの現在の貿易状況と、我が家との取引の経緯を改めて確認します」
「頼む」
父は初めて少し顔をほころばせた。そしてもう一度、窓の外へ視線を向けた。
庭では、今日も花が咲いていた。
その夜、エリナは書斎から借りてきた資料を机に広げた。
ランドール王国の概略。宰相アレク・ランドールの経歴。過去五年間のヴォルフォード家との取引記録。
ページを繰りながら、エリナは気づいていた。
今日の午後、王家の密使と向き合っていたとき、胸の中に静かな怒りはあった。しかし不思議と、乱れなかった。声も手も。ただ事実を整理して、必要なことだけを言えた気がする。
王太子妃になるための十年間が、少なくとも一つのことは教えてくれた。
感情と言葉は、分けて使うことができる。
それがこれから役に立つのかどうか、エリナにはまだわからなかった。ただ机の上の資料を読み進めながら、久しぶりに、何かに集中することの心地よさを感じていた。




