第3話
婚約破棄から三日が経った。
世間はまだ騒いでいた。宮廷では様々な憶測が飛び交い、知人からの見舞いの手紙も毎日届いた。エリナはそのすべてに丁寧な返事を書いたが、中身はどれも似たようなものになった。ご心配をおかけしてたいへん恐縮です、どうかお気になさらないでください、私は元気にしております。
嘘ではなかった。元気かどうかはともかく、少なくとも壊れてはいなかった。
その日の午後、エリナは自室の窓辺に座って外を見ていた。手元には本があったが、文字が頭に入ってこなかった。視線だけ窓の外に向けながら、ぼんやりと考え続けていた。
何を考えているのかも、はっきりしなかった。
十歳の春のことを、唐突に思い出した。
婚約が決まったと両親から告げられた日のことだ。当時のエリナには、王太子妃という言葉の重さがよくわからなかった。ただ、母が誇らしそうな顔をしていたから、きっといいことなのだろうと思った。
翌月から、生活が変わり始めた。
礼儀作法の授業が増えた。語学の家庭教師が新しくついた。読んでいいものとそうでないものが生まれた。エリナが好きだった冒険譚の本は棚の奥にしまわれ、代わりに歴史書と政務の入門書が並んだ。
友人と会う時間も、少しずつ減った。
同い年の令嬢たちとお茶をする機会がなくなっていくのは、特に誰かが禁じたわけではなかった。ただ、授業が多くなり、練習が多くなり、気がつけば一日が埋まっていた。友人たちも、エリナが「王太子妃になる人」になってから、少しよそよそしくなった気がした。近づきにくくなったのかもしれないし、エリナ自身が変わったのかもしれない。
どちらが先だったか、今となっては判別できなかった。
十四歳のころには、クロードとの定期的な面会が始まった。
月に一度、宮廷の応接室で顔を合わせる。形式的な会話を三十分ほどして、お互いに礼をして別れる。それだけだった。クロードは感じのいい青年だったが、エリナとの会話はいつも少しぎこちなかった。共通の話題を探しながら、当たり障りのないことを言い合って、時間が来たら終わる。
愛情があったかどうか、と問われれば——エリナにはわからなかった。
嫌いではなかった。礼儀正しく、乱暴なことは言わなかった。それで十分だと思っていた。結婚というものはそういうものだと、誰かに教わった気がする。誰だったか、もう思い出せない。
好きになろうとしたこともあった。十六歳のころだったか、十七歳だったか。意識して彼を見てみようとした。笑顔が綺麗だと思った。声が低くて聞き取りやすいとも思った。でも胸が高鳴るとか、会いたいと思うとか、そういう感情は最後まで育たなかった。
その事実を、エリナはずっと自分の欠点として受け取っていた。
愛し方を知らない人間なのかもしれない、と。
十九歳で、政務補佐の訓練が本格的に始まった。
これは苦ではなかった。むしろ、はじめてエリナが「面白い」と感じた勉強だった。国と国の関係。貿易の均衡。条約の文言一つが持つ意味。歴史の流れの中で読み解く現在の政治地図。そういったことを学ぶのは、純粋に知的な喜びがあった。
家庭教師のオルベ先生は「あなたは筋がいい」と言ってくれた。その言葉は、珍しく素直に嬉しかった。
でも、その勉強も、すべては「王太子妃になるため」という文脈の中にあった。
自分のために学んでいるのではなく、誰かの役に立つために学んでいる。その違いを意識するようになったのは、いつごろだっただろう。
窓の外で、使用人が桶に水を汲んでいた。当たり前の午後の光景だった。
エリナは手元の本をそっと閉じた。
後悔があるかと問われれば——あまりないと思う。やり直せるとしても、十歳のエリナには婚約を断るという選択肢は見えなかっただろう。その後の十年も、できる限りのことをしたつもりだった。怠けた記憶はない。
ただ。
私はずっと、誰かの隣に立つための存在として生きてきた。
その考えが頭に浮かんだとき、不思議と涙は出なかった。
代わりに、ふっと胸の中に空間ができたような感じがした。重いものが消えた、というよりも、ずっとそこにあると思っていたものが、実は最初からなかったような。
解放感、という言葉が頭に浮かんだ。
それを感じることへの罪悪感も、少しあった。十年間、関わった人たちに申し訳ないような。でも父の言葉が蘇った。——楽になったと感じても、お前はお前を責めなくていい。
エリナは目を閉じた。
しばらくそのままでいた。
窓から入る春の風が、薄く髪を揺らした。今度は、それを悪いとは思わなかった。




