表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたに捨てられた夜から、私の本当の人生が始まりました  作者: 小林翼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/40

第3話

 婚約破棄から三日が経った。


 世間はまだ騒いでいた。宮廷では様々な憶測が飛び交い、知人からの見舞いの手紙も毎日届いた。エリナはそのすべてに丁寧な返事を書いたが、中身はどれも似たようなものになった。ご心配をおかけしてたいへん恐縮です、どうかお気になさらないでください、私は元気にしております。


 嘘ではなかった。元気かどうかはともかく、少なくとも壊れてはいなかった。


 その日の午後、エリナは自室の窓辺に座って外を見ていた。手元には本があったが、文字が頭に入ってこなかった。視線だけ窓の外に向けながら、ぼんやりと考え続けていた。


 何を考えているのかも、はっきりしなかった。



 十歳の春のことを、唐突に思い出した。


 婚約が決まったと両親から告げられた日のことだ。当時のエリナには、王太子妃という言葉の重さがよくわからなかった。ただ、母が誇らしそうな顔をしていたから、きっといいことなのだろうと思った。


 翌月から、生活が変わり始めた。


 礼儀作法の授業が増えた。語学の家庭教師が新しくついた。読んでいいものとそうでないものが生まれた。エリナが好きだった冒険譚の本は棚の奥にしまわれ、代わりに歴史書と政務の入門書が並んだ。


 友人と会う時間も、少しずつ減った。


 同い年の令嬢たちとお茶をする機会がなくなっていくのは、特に誰かが禁じたわけではなかった。ただ、授業が多くなり、練習が多くなり、気がつけば一日が埋まっていた。友人たちも、エリナが「王太子妃になる人」になってから、少しよそよそしくなった気がした。近づきにくくなったのかもしれないし、エリナ自身が変わったのかもしれない。


 どちらが先だったか、今となっては判別できなかった。



 十四歳のころには、クロードとの定期的な面会が始まった。


 月に一度、宮廷の応接室で顔を合わせる。形式的な会話を三十分ほどして、お互いに礼をして別れる。それだけだった。クロードは感じのいい青年だったが、エリナとの会話はいつも少しぎこちなかった。共通の話題を探しながら、当たり障りのないことを言い合って、時間が来たら終わる。


 愛情があったかどうか、と問われれば——エリナにはわからなかった。


 嫌いではなかった。礼儀正しく、乱暴なことは言わなかった。それで十分だと思っていた。結婚というものはそういうものだと、誰かに教わった気がする。誰だったか、もう思い出せない。


 好きになろうとしたこともあった。十六歳のころだったか、十七歳だったか。意識して彼を見てみようとした。笑顔が綺麗だと思った。声が低くて聞き取りやすいとも思った。でも胸が高鳴るとか、会いたいと思うとか、そういう感情は最後まで育たなかった。


 その事実を、エリナはずっと自分の欠点として受け取っていた。


 愛し方を知らない人間なのかもしれない、と。



 十九歳で、政務補佐の訓練が本格的に始まった。


 これは苦ではなかった。むしろ、はじめてエリナが「面白い」と感じた勉強だった。国と国の関係。貿易の均衡。条約の文言一つが持つ意味。歴史の流れの中で読み解く現在の政治地図。そういったことを学ぶのは、純粋に知的な喜びがあった。


 家庭教師のオルベ先生は「あなたは筋がいい」と言ってくれた。その言葉は、珍しく素直に嬉しかった。


 でも、その勉強も、すべては「王太子妃になるため」という文脈の中にあった。


 自分のために学んでいるのではなく、誰かの役に立つために学んでいる。その違いを意識するようになったのは、いつごろだっただろう。



 窓の外で、使用人が桶に水を汲んでいた。当たり前の午後の光景だった。


 エリナは手元の本をそっと閉じた。


 後悔があるかと問われれば——あまりないと思う。やり直せるとしても、十歳のエリナには婚約を断るという選択肢は見えなかっただろう。その後の十年も、できる限りのことをしたつもりだった。怠けた記憶はない。


 ただ。


 私はずっと、誰かの隣に立つための存在として生きてきた。


 その考えが頭に浮かんだとき、不思議と涙は出なかった。


 代わりに、ふっと胸の中に空間ができたような感じがした。重いものが消えた、というよりも、ずっとそこにあると思っていたものが、実は最初からなかったような。


 解放感、という言葉が頭に浮かんだ。


 それを感じることへの罪悪感も、少しあった。十年間、関わった人たちに申し訳ないような。でも父の言葉が蘇った。——楽になったと感じても、お前はお前を責めなくていい。


 エリナは目を閉じた。


 しばらくそのままでいた。


 窓から入る春の風が、薄く髪を揺らした。今度は、それを悪いとは思わなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ